44 猛毒と解毒剤 ー経緯ー



          *


 かじが一行を抜けたのは、それから三日後の夜の事だった。

 二日前にてい州入りした一行は、その日、州最北のろう県に入った。

 斗老最大のごう烏鷺うろという。烏鷺の城牆じょうしょうくぐったのは夕刻の事である。比較的まだ活気のある郷であり、内には黄師こうしの拠点がある。ここで水や食糧を調達し、翌朝には早々に出立しなくてはならない。


 黄師の拠点を置ける郷は多くない。

 下がりの品を引いているためだ。


 これはそこに存在するだけで市井の民の脅威となるものである。民の安全を考慮すればこそ、自然、両者の接触は最大限避ける方法が選ばれた。結果、一部分外にり出した形で建て増しされた凸壁の中に荷馬車ごと滞在する方法が主流となった。そしてそれは多く大門の真裏に設置された。ようは裏門間際に設置された出島のようなものである。

 その役務の内容上、どの郷であろうと黄師は決して歓迎はされない。

 我が物顔で郷内を闊歩でもしようものなら、多く民の不安を余計に掻き立てるばかり。利は一切ない。故に黄師は表から郷に入る事はしない。目立たぬよう最小限の接触に努める。宮廷直轄の軍とはいえ、配慮は必須。通常ならば強さ兵らしさの発露たる傲慢さは、最も忌避される要素となる。自然、思慮深く静かな者が多く、民もその邪魔をしようとはしない。遠巻きに滞在を黙認するばかりだ。

 しかし商人にとっては話が違う。

 宮廷直轄。即ち元を辿ればげつじょえんの私兵である。金子きんすはずまれる。黄師とは、商人にとってすればこの上ない良客であり、その滞在はあきないの好機だ。隊が落ち着いた頃を見計らって、ぞくぞくと天幕に押し寄せてきた。その流れに巻き込まれて、多少の民も流出してくる。


 つまり、この商人達の作る流れに梶火は紛れ込み、一行から離脱するのだ。


 眼の色は変えられないが、頭髪を落とし風防を目深に被っているので見たところ大きな違和感とはならない。この夏からは肌も焼けないように最大限留意した。お陰で恐ろしい程に生白いままだ。

 誰にも気付かれずに荷馬車から降りてしまえば、儀傅ぎふと話していても商売をしていると言い訳が立つ。そのまま儀傅の仲間と合流して一行を離れればよい。

 そう説明を受けている間、梶火は荷馬車の隙間から初めて目にする城牆じょうしょうや人の流れやにぎわいに目を奪われていた。

 実際に目にする豊かさから受ける衝撃は並大抵のものではない。これがえいしゅう姮娥こうがの違いかと、腹の底から痛感した。いつか、ゆうが帝壼宮から戻った後に消沈して「あれには勝てない」と言った意味が肌身で理解できた。おそらく宮城はここの比ですらないのだろう。

 抱える富、兵、武器、何もかもの規模が桁違いなのだ。


「――これは、折れもするよなぁ」


 心が、とひとつ。

 自分達瀛洲に何があるかと言えば、馬鹿みたいに殺傷力のあるさんぽう合祀ごうし白玉はくぎょくだけだ。兵として使える男も、自警団設置にともない増やしたが、それでもまともに機能するものは五十に満たない。

 今自分が手勢に出来ると言えるのがたった五十だ。

 しかもいざ実戦となったら半数以上は日和ひよる。確実にそうなる。見ていれば分かる。

 ――これでは駄目だ。

 自分一人が熊掌の為に身命を賭しているだけでは足りないのだ。自分達に必要なのは圧倒的な武力。圧倒的な兵站へいたん。そして圧倒的な統率力だ。

 自分は確かに無力だ。

 眼の前を流れて行く景色の中で、只管ひたすらに立ち尽くすしかない無力。こんな事は経験がない。あの火災の時ですら、もう少しまともに頭が働いていた。ただ我武者羅に走れた気がする。そこで、やっと思い至った。

 あの頃の自分には、護るべきものが何もなかったのだ、と。

 と、ばさりと頭上に何かが降ってきた。見れば油紙に包まれた書状である。

「なんだこれ」

騎久瑠きくる宛の紹介状だ。お前の引き渡し時に話をする余裕は一切ないからな。これを渡せば騎久瑠なら大まかな事は理解するし、間違いなく俺からの紹介者がお前だという証拠になる。紛失するなよ」

「わかった」



 夕刻を前に、黄師こうしはこの凸壁の内の広場に天幕を立てた。これも立てる場所が決まっている。熊掌ゆうひはその内の一つを専用に与えられていた。邑長としての扱いと取るべきか、危険なものにはなるべく近寄りたくない、同じ場所の空気も吸いたくないと言う意思表示と取るべきか、熊掌は皮肉な笑みを浮かべた。

 誰が何時天幕をくぐるか知れないので、迂闊に着替えたり、水で汚れを落とす事もできない。わずかだが濡らした布で顔や手足をぬぐうにとどめる。

 えいしゅうから離れるに従い、全身を覆う火照りと無力感は増す。行きたくないと全身が拒絶しているのが分かる。それでも行かねばならない、逃げ出してはならない。逃げてたまるか、死んでも眼に物を見せてくれると、相反する感情が身の内を焼く。

 ごろりと寝転がる。と、ふところに硬さを感じ、その存在を思い出した。胸の上からそっと抑えて手触りでその二つの存在を確認する。そこにあるのは小さなびんだ。大丈夫。ちゃんとここにある。熊掌はゆっくりとまぶたを閉じた。

 それは、出立の間際に長鳴ながなきから渡されたものだ。相当な無理を言った自覚はあったが、何とか今回の参内に用意を間に合わせてくれた。以前八咫やあたに言った、実は自分などよりも余程学が身についているというのは、実際誇張でも何でもなかったのだ。


 長鳴は、八俣やまたの仕事を側で見ているのが好きな子供だった。


 八俣が邑長邸で仕事をする時、長鳴は決まって影から彼の仕事を盗み見ていた。石や薬草や、よく分からない灰などを長鳴が集め出したのは、あの子が三つぐらいの頃である。そしてそれは今、南辰なんしんの仕事への関心に変わった。


 調合。これが長鳴の強みだった。


 あの子ならば猛毒一つ作るのなど造作もないだろう。重要なのは、その毒を解除できる方法を持っているかどうかだ。戦略として用いる猛毒という物の良し悪しは、全てこちらに掛かっている。

 見てすぐに人に模倣されるような毒などなんの価値もない。それでは瞬時に解毒されてしまう。


 一に、それが誰にも作れない調合方法で作られた猛毒である事。

 二に、その毒を解毒できるのは製作者一人に限られる事。量の調整で死に至るまでの時間操作ができる。服毒から何時までなら解毒剤を使って死出の旅路より引き帰させる事ができるのかなどの綿密な計算管理ができる。

 この双方が並び立っている事が重要なのだ。


 長鳴にならそれが可能であると熊掌は判断した。だから頼んだ。

 見送り当日の朝、長鳴は眼の下にひどくまを作っていた。聞けばつい先ほどまで分量と効果の関係について書簡に書き留めていたのだという。

 兄弟は悟堂ごどう邸のいつもの居間で向かい合った。


「いいですか兄上。今回のものは遅効性です。効き目は弱いけれど体外に排出されないのでじりじりと効きます。瓶一つに毒を。もう一つに書簡を入れてあります。努々ゆめゆめ紛失されませんように」

「ああ、ありがとう、助かった」

「まずはゆるやかな不調と違和感をはぐくみます。全員が何となく薄っすら不快であるという状態になれば、天候気候などの外的なものに要因を求める心理が働きます。これを基礎としましょう」

 日常にじりじりと、じわじわと忍び込む毒。

 環境全体がそうであるから、自分一人がおかしい訳ではないから何となく馴染んでいってしまう。それが当たり前となった時、それは病態でも毒でもなく、ただのなんとなく憂鬱な日常と化すのだ。

 それが人為的に行われるという、何という恐ろしさだろうか。

 熊掌は静かに嗤った。

 こんな恐ろしい事を自分は平然と笑って弟にやらせているのだ。その手を汚せと笑いかけた。

 形振なりふり構っていられない立場と状況だとは言え、自分は何という無体を身近な者達に強いているのだろうか。

 吐き気がした。

「兄上?」

 急に黙り込んだ兄をいぶかしんだのか、わずか小首を傾げた長鳴に、熊掌は少しだけ微笑んで「何でもない」と首を横に振った。

「わかった。話を続けてくれるか」

「五年です」

 長鳴はそう言っててのひらの五指を開いて見せた。

「五年かけるつもりでやって下さい。僕の力ではこれが限界です」

「五年だな」

「はい。最後の毒の仕込みに最低それだけの時間が必要です。それと同時進行でもう一点、とても重要なものを」

「ああ」

「こちらには、あと一年時間を下さい。それまでに――対月人用に死屍散華の解毒薬を完成させます」

「やれるか」

「やります」

 長鳴は断言した。

「用意するのは二種。事前服用で死屍散華が効かなくなるようにするもの。ただしこちらは定期的な摂取を必要とするものを作ります」

「一度では駄目か」

「一度で効果が出て死ななくなったら、こちらの言う事など聞かなくなるでしょう? 長期的にこちらに従わざるを得ない状況を作らねば」

 さらりと恐ろしい事を言ってのける長鳴に熊掌は一瞬胴震いした。

「もう一種は死屍散華を身に浴びた、もしくは口に入れてしまった後に解毒するもの。これは状況から考えれば、かなりの時間との勝負になる事なので、あまり有用ではないかも知れませんが、希望的観測を持たせるという意味合いの為に作ります」

 長鳴がそこまで言ったところで、南辰が戸外から声を掛けてきた。

 出立の時間である。二人は立ち上がると土間に降りた。熊掌は手荷物を持ちながら、自身の懐に二つの瓶を仕舞い込む。

「兄上」

 長鳴が早口で残りの言葉を続ける。

「二年先までにもう一種の毒と解毒剤を完成させます。こちらは神経に効くものを予定しています。三年以内に身体の状態は良好ではないけれど死にはしない状態にできる毒を用意します。五年後に完成する毒は、ここまでに服毒させたものと体内で混ぜて一気に致死とするものになります。この最後の毒を盛ればもう解毒はないとお考え下さい」

「ありがとう。とてもよく分かった」

「これができれば」

 長鳴が戸を引く。



「方丈の殲滅と、姮娥の民の懐柔が叶います」



「そうだな」

 兄弟の物騒な会話に、待ち受けていた南辰は口を挟まなかった。彼もすでに承知の事である。長鳴がすっと熊掌の足元に屈みこんだ。熊掌の履物の紐を締め直す。革の靴である。あんなに忌々しかったものにも慣れた。

「僕の布に書かれていた文章は、『環』の生成には『色変わり』しない男の頭蓋と脊椎の繋がった物が用いられる。生死は問わない。肉からこれを取り出すためには寶刀を用いて行う。――でした」

「うん」

 三人は邑の東へ向かう。まだ夜の明けやらぬ頃である。

「八咫達でも誰でもいいです。誰かが贄を用意して『環』を外して白玉を解放してくれたとしても、姮娥が再び『環』を用意して繋ぎ直してしまえば全ては御破算となってしまいます。僕がこの一連の流れに身を投じるにあたり、自分の役責として請け負えるのは、これを阻止する事。この一点に他なりません」

 門をくぐる間際、長鳴は熊掌の背中に小さくこう言葉を投げて結んだ。

「『環』足り得る男の大半は方丈にあります。まずはこれを根絶やしにしましょう。実働は兄上にゆだねました。僕はここで僕がやるべき事を成し遂げます」


 ――嘘だぁ。あいつなんかかじの腰巾着じゃねぇか!


 懐かしい言葉を思い出し、ふふっと少し笑った。

 なあ八咫、結局お前にはあの二人が血縁だという事を教えないままになってしまったね。いつかまた再会できた時にこれを教えたら、君はどんな顔をするんだろうな。

 いつの間にか、強い人間になっていた。

 長鳴も、梶火も。

 自分一人が、ぐずぐずと溶けて崩れている。そんな気がした。


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