79 乳房


          *


 七年の眠りから覚醒したばかりの悟堂ごどうにとっては、食国おすくにと言葉を交わすだけでもその心身に掛かる負荷は大きかったらしく、その言葉を吐き出すや否や、そのまま再び昏倒こんとうした。

 彼をしとねに再び寝かせた後、食国おすくには立ち上がり、入り口の布を掻き揚げるとその場を後にした。

 悟堂の身を置いているいわやの外は、一転して人為的な空間となっていた。

 しゃ長石ちょうせきの床石は寸分の狂いもない方形に切られ、みっちりと敷き詰められている。その正確無比な仕事を見るにつけ、食国の中には忸怩じくじたるものが生じる。


 これは、母、宇迦之うかのの設計によるものだ。


 えいしゅうで母の身分を知った時には、彼女の事をまだよく理解していなかった。滅びた朝廷の皇にはべった身であるという、その字面じづらでのみ価値を判断していたのである。しかし、彼等と接するこの七年で痛感する事になった。


 単なる繁殖手段としての交配者など、彼等の中では何の意義も持たないのだと。


 宇迦之はすいれい君の名で知られる、本来しょう軍に属した名工の誉高き建築士であった。辺境の生まれで辺境にのみ生きてきたにも関わらず、その造る物は堅牢さにおいて突出していたという。その名声が宮廷にまでとどろき、結果、その腕を見込んだ父、はくこう三交さんこういちとして迎えた。

 そう。母は側室ではなく、こうなのだ。

 食国はえいしゅう育ち。つまりは五邑ごゆうの価値観の中で育った人間だ。だから、どうしても配偶はいぐうの思考が脳裏にこびり付いている。だから、そこに序列が見えてしまっている。

 食国自身の中にも、伴侶というものは一夫一妻だという強固な思い込みがある。そこからの逸脱に対して強い忌避きひ感があるのだ。



 複数の人間と命を、身体を重ねたくない。

 それが食国の本音であり、また、伴侶にも求めるところだ。

 しかし、白の民の身でそれを堅持すれば、未来に命が繋がる事はない。



「――……袋小路だな」

 溜息交じりにひとつ。

 視線を前へ向けて、食国は母の仕事を、その手の凄まじさを目の当たりにし、そして心に受け止める。

 国においても姮娥こうが国においても、全てに優先されるのは個人の資質。完全なる実力と人徳優先だ。知力もない、技術すらない食国が、本来ならば彼等に旧朝復古の要として認められる要素はどこにもないのである。

 えいしゅうに長期間隠れた結果、死屍しし散華さんげの影響で母は大きく体を害していたが、白浪はくろうに合流して後はその辣腕らつわんを大いに発揮し、現在潜伏しているこの地においては、こうして新たに文字通りの牙城がじょうを築くに至っている。

 この磨き抜かれた床石を素足で踏む度に、左足首をいましめる『かん』の鎖が引きられてじゃらじゃらと音を立てる度に、食国には自身の無力が突き付けられるようであった。


 彼にあるのは先帝の遺児であるという事実と、はく孫彌そんやという名――それのみだ。


 白浪はくろうが兵を挙げ、天意奪還をたくらむならば、己などより城を築ける母がいる方が余程有意義だ。

 この国の現状のままでいいとは微塵みじんも思わない。だから戦い勝ち取る必要はあるのだろう。――が、割り振られた役に自身がそぐうかと言えば、正直なところ全くそうは思えない。統治の任に着くに相応ふさわしい能力など、自分は一切持ち合わせていない。

 そもそも食国は、げつ如艶じょえんも、父はく瓊環けいかんも、帝位に相応しい人物である、あるいはあったとは、微塵も感じていないのだ。

 善しと比定できる存在がない状態で、目指すべき像を定めるのは難解極まりない。

 正直に言って、閉口の上お手上げと言った気分だ。

 廊下を進んだ先に、野犴やかんが立っていた。食国は不快な表情を隠さず、懐から銀のかんざしを引き抜くと髪をぐるりと巻いてまとめた。全身を覆う程であった髪が結われる事で、体の曲線があらわになる。

 野犴は、手にしていた赤い上衣を簡易的に食国に纏わせると太い革帯でゆるくめた。腰回りの華奢きゃしゃな事がそれで強調される。

 正絹と思しき衣の表には、鮮やかな金糸の刺繍が散りばめられていた。

「御不快は承知致しておりますが、衆目を集めます」

「わかっている。悟堂ごどうに代わりの監視をおけ」

「既に」

 手回しの良い事だと、食国は薄く笑んだ。野犴が日頃から悟堂に対する嫌悪を隠さずにいたのは確かだが、存外本気で首をる気でいるのかも知れない。

 絹の手触りが、ずるりと肩ですべる。自身の乱れた胸元にちらと目を落してから、食国は溜息交じりに襟を引いて正した。

 まるく、まろやかな乳房は人よりかなり大きいが、月の民は授乳をしないから、これはただの邪魔な脂肪の塊なのだ。だったらなくていいのに。



 八咫やあたは、こういうものに頓着する人間じゃなかったもの。

 八咫が欲しがるものじゃないなら、何もいらないのに。



 の民にも、五邑ごゆうの民と同じく二次性徴に近い変化が訪れる。しかし成長が極めて遅い食国には、出生して五百年を経てもその兆候が見られなかった。それが、白浪と合流して間もなく、その変移が兆したのである。

 はじめは『環』による拘束で不調を来したのかと思われたが、やがて異変の正体が明らかになった。



 経血がきたのである。



 その事実にらい達が受けた衝撃はそれ相応のものであったが、最も驚愕したのは食国本人であった。

 食国本人は、長く自身を雄性ゆうせい二種にしゅの両性だろうと認識していた。成長の遅さから、雌性しせいらしい肉体に変化が導かれない期間が長かったからである。しかし経血が現れるのは雌性を二種以上持つ者に限られるのだ。

 三交により一子が為される時、子は三人の親から雌雄の何れかの種を一つずつ引き継ぐ。この時、雄性が二、雌性が一であれば雄性寄りの両性となり、雄性が一、雌性が二であれば雌性選りの両性となる。三つの性が同一でそろう事は滅多になく、故に完全雄性である父と完全雌性である母は、各々極希少な性の持ち主であったと言える。そして食国の場合、当然父からは雄性、母からは雌性しか引き継がれない。故に、もう一交である赤玉からは雌性が引き継がれたのだと分かった。

 確かに、夜見の民は嗅覚で自身や他者の雌性雄性の種を判別する事ができるが、その判断が付けられるようになるのは成人に等しい成長を経た後の事。食国の成長の遅さが、その判別をさしむる事無く現状にまで至らしめていた。

 経血と言っても、五邑のそれとは質が違う。その頻度は数年に一度あるかないか程度のものだ。が、経血が発生した者は懐妊の可能性が飛躍的に高まる。外観も雌性に近付く。この七年で、全身の線はまろくなった。胸や尻の豊かさも、最早隠せない状態にある。そしてその身体的成長に従い、しばらく前から雌性二種である事が匂いからも確認されるようになっていた。

 が、長年雄性の感覚で過ごしてきた食国である。彼にとって意識や立ち居振る舞い、身形を雌性的に改めるのは想像以上に不快な事だった。


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