49 甘い毒 ー経緯ー



 夜は更けた。そろそろ刻限的には朝が近いのだろう。しかしこの辺りに統治の手は及ばない。囲いはない。だから――夜は明けない。


「丁度その頃だ。私達と八咫やあた達が行き会ったのは」

「お前達に目覚めが起きたのも、か」

 かじの言葉に、騎久瑠きくるは目を伏せてうなずいた。

「……あの頃の混乱状況は凄まじかった。私と母は偶然八咫に助けられたから何とかなったが、何ともならなかった奴等も多かった。多数が目覚めが原因で死んだ。母と青炎せいえんは先に進ませ、私と紅炎こうえんとで協力を申し出て共に豊州ほうしゅうへ向かったが――運悪く軍師と行き会ってしまった」

 眉間に深い皺を刻みながら、騎久瑠は自身の肩を抱いた。

 紅炎が困ったように微笑みながら騎久瑠の頭を撫でる。それから、真っ直ぐな目を梶火に向けた。闇の中で、紅炎の瞳が燈明に照らされて、揺れた。



「腹に重傷を負った八咫をその場に置き去りにした。判断したのは俺だ」



 梶火は何も言わなかった。言えなかった。

「言い訳はせんよ。これは州長の娘だ。顔を表に出させる訳には行かん。だから八咫にも俺達の正体は明かしていない。あいつは俺達に逃げろと言った。だから、どさくさにまぎれて戦線離脱した」

 じじ、と、再び灯火が揺れる。

 これが戦の前線の現実なのだ。実際に命をその場に置いていなかった自分に、何かを言う資格があるとは思えない。

 だが、胃のが痛むのは否定できなかった。

白浪はくろうは、その後間もなく本拠地を爆破しててたと聞く――八咫が生きて仙山に帰り着いたというのだけは、二月ふたつき程過ぎてから確認がとれた」

「そうか。……よかった」

 梶火は深く溜息をいた。最悪の手土産だけは持たずに済んだわけだ。

 騎久瑠は大きく息をいてから、膝の上で拳を握りしめた。

「さっき、八咫の仲間だったなら信頼できると言ったが、実際はそれだけではなくて――私等は、八咫に恩を返し切れていない。だから、その分をお前達に返せたらいいと、そう思ったんだ」

 梶火は――赤玉を見上げた。

 ふと、自分は今何処にいるんだろうと思った。何故自分は、邑からこんなに遠く離れた場所でこんな話を聞いているんだろうか、と。どうして熊掌ゆうひの傍にいないのだろうかと、不思議でならなかった。


 分かっていた。


 そうだ。自分は熊掌の隣に居続けるためにここに来たのだ。

 使えるものは使う。心の中で小さく八咫に詫びた。お前の歩いた道を使わせてもらうぞ、と。

「ああ、つまり」

 ぼそり、と口からようやく言葉が出た。

「罪滅ぼしをしないと寝覚めが悪いって事なんだな? 騎久瑠」

「――言葉を選ばないなら、そうなる」

 梶火は頭を掻き毟ると、一つ咳払いをした。

「手を貸してもらえると聞こえた。そう判断していいんだな」

「――事の過多にも寄る。私一人で判断できない事もある」

 軽率に断言しないところがいいと感じた。そんな自分に梶火は笑う。自分も十二分に底意地が悪い。

「あんたら臨赤りんしゃくは国中に細かい五百から千の規模がある集まりと繋がりがあり、なおかつ妣國ははのくにの血を引く者や、まつろわぬ民の集まりとも繋がりがあると」

「ああ。しかしこの二つは繋がってはいないぞ。これは単純に私の伝手つてだ」

「両者を合わせて数は」

「あわせ、てって」

「そうだ。合算したらどうだ」

「――女子供も老人も含めてならば、二千万だ」

内訳うちわけは」

「まつろわぬ民で五百万。姮娥こうがで一千五百万。およそだぞ」

「そこに仙山せんざんは」

「含まない」

 梶火は手で口元をおおいながら考え込んだ。

「――姮娥の総数は五千万だ」

 紅炎が組んでいた腕を解きかけながら眼を丸くした。

「紫炎、お前さん、そんな事よく知ってたな」

「対して五邑全体はおよそ二千から三千だ。えいしゅうの数は千もない。百戸ほどあるが二年前に百人近くが死んだ。それから大して増えてねぇ。自警団を設置したが手勢に出来るのは五十だ。半数は多分実戦じゃ使い物にならん。臨赤とまつろわぬ民の内で戦えるものを三割と見ても六百万か……」

 そこからしばらくゆっくりと沈み込むように梶火は背を丸めた。眼は床の一点をじっと見つめている。

「騎久瑠」

「なんだ」



危坐きざが動かせる軍と兵站へいたんはどれぐらいだ」



 騎久瑠が目を見張る。隣の紅炎の形相も険しくなる。

「――お前、何考えてる」

「いいから答えろ。州全体の兵でこちらにつきそうなのは」

「――よくて八百だな。州付きの兵は反逆防止に数を少なくされている。……危坐は特に州長があれだからな。兵站は存外ある。危坐は中央から遠い分、自前でのたくわえが多いんだ」

黄師こうしと禁軍の数は」

「完全に把握はしていないが、禁軍で五百万、黄師で百万と言った所か」

 つい、と梶火が顔を上げた。騎久瑠の眼を真っすぐに見据える。しかしそれは、騎久瑠を見ているようで、そうではないように騎久瑠には感じられた。騎久瑠自身ではない。もっと遠い、騎久瑠の背後に見えるあらゆるものを――それはもしかしたら、父の顔なのかもしれない。そう感じた瞬間に、肝が冷えた気がした。

 こいつは、生半なまなかな覚悟でここへ来たのではないのだ。

 本気で獲物を狩りに邑を出てきている。



「――つまり、危坐、白浪、仙山を巻き込めば、やりようによっては数で朝廷をつぶせるという事だな」



「おい紫炎しえん

 さすがの言葉に紅炎が腰を浮かしかける。

「お前さん、流石さすがに軽率が過ぎるぞ。単なる数遊びじゃないんだ。人間の命が掛かってるんだぞ?」

「知ってる。俺の育ての親もこれに巻き込まれた結果死んでる」

「――……。」

 騎久瑠は真剣な眼を梶火に向けた。

「なあ紫炎。げつじょえんに弓を引く事をそんなに簡単に口に出さないでくれ。私達にはそもそも奴等に立ち向かえるだけの武器がないんだよ。廂軍しょうぐんには散華刀さんげとうの支給はないんだ。対して禁軍と黄師に死屍しし散華さんげの力をそなえた武具がどれだけたくわえられているか、お前想像できるか? 月の民が如何いかに不死に近いとは言え、あれには絶対に対抗できないんだ。だからこそこの五百年、民は誰もまともに動けなかったんだろうが」

 梶火がゆっくりと立ち上がった。とぼとぼと無言で歩を進めると、赤玉の前に立った。ゆっくりと見上げる。どこかから吹き込んだ風が、さらさらとたますだれをゆらして清い音を立てた。

「――なあ、お前ら、赤玉になんで帰ってきてほしいんだ?」

「え」

 肩透かしを食らったその質問に、思わず騎久瑠も紅炎も真顔になってしまった。梶火の背中を見詰めてしまう。

「そ――それは、白玉の威力のために、朝廷に絶対服従するしかない現状を打破したいのと、水に溶けるという特性のせいでまともに食物を確保できなくなったせいで、生きる事そのものに民が逼迫ひっぱくしているから――だが」

「つまり、死屍散華の害を何とかしたいって事だろ?」

「有体に言えば、本質的にはそうだ」

 と、梶火が半身で振り返った。静かな表情だったが、その眼は異様に澄んで見えた。

 否、これは反射だ。

 見通せない程どす黒い何かに満ちた眼、その表面を光が撫でているのだ。

 それが、ふっと悪戯いたずら小僧のように笑った。

「これは極秘で未完の話だ。しかし見込みはでかいと判断して聞け」

「わかった。なんだ」

「今瀛洲で、死屍散華の解毒薬を作っている」

「――――――げ、」

「解毒薬だと? お前、それは」

 今度こそ梶火は「へへっ」と声を出して笑った。

「完成の予定は一年先を見込む。およその目算は出来ている」

 その眼は、一体何を映しているのだろうか。明るい未来を見通しているのか、それとも――何かを一掃いっそうしたいのか。



「欲しくないやつ、姮娥にいるか?」



 否やしか答えのない問いが、梶火の微笑む唇によって紡がれた。

 それは、死屍散華の毒よりも、はるかに甘く逃れようのない毒の誘いだった。


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