75 旭光


          *


 ここは、一体何処なのだろうか。

 はじめは、そう思っていた。



 茫漠ぼうばくとしていた意識が、突如いかずちに打たれたように明瞭となり、悟堂ごどうの視界は一気に広がった。

 ざわりとした寒気に襲われる。暗い、只管ひたすら暗い中に、き散らかされたように微細な光の明滅がある。上に、下に、左右に、前後に、果てしなく、無情にも、続く、永劫。



 ここは――『神域』だ。



 かつて叩き落された事がある、あの忌々いまいましい場所だ。

 全身がざわりと震えた。何故? 何故今再びここに?

 ――いや、そんな事は決まっている。熊掌ゆうひと繋がったからだ。

 記憶と意識が急速にはっきりとしてくる。

 そこは無限の天球だった。己は、果てしない中空に放り出されていたのだ。以前落とされた時と同じだ。頼みとなるのは自身の意識しかない。ここに己の肉体は存在しない。ただ意識だけがここにあり、意識だけがその天球の全てを認識しているのだ。

 だから視界がとらえた、というのは正しくはないのだろう。四方の景色が同時に認識され、そこに満ちた轟音に全意識がさらされて、翻弄ほんろうされる。脳髄を揺るがされる。

 果てがない漆黒の天地には数多の星が散る。そこに、一つの豪炎のうねりが蜷局とぐろを巻いていた。激しく燃え盛るそれが悟堂の目を捉えて離さない。

 うねりの正体は、赤く白く燃える巨大な玉だった。それが漆黒の中空で、じっと、己の灼熱を抱え込むようにして浮かんでいるのだ。

 誰も、何も関わるな。触れてくれるなと、明白な拒絶をもって、渦巻いていたのだ。

 だのに。

 そこへ、近付いてくる閃光がある。悟堂は息を吞んでその存在を捉える。

 突如として現れたのは、くの字の如くいびつに折れた燃え盛るかたまりだった。それがどこから来たものなのか、悟堂は知っている。過去にも見ているからだ。

 それは、それを寄越したのは、


 日輪だ。


 飛来する。近付いてくる。赤く白く燃える玉の絶対的な拒絶を物ともせずに、それは――轟音と共に衝突した。



 闇に、

 旭光きょっこうが、満ちる。

 り込む、砕く、分ける、破砕する。

 散る。

 ――――――赤と白が、日輪に、割り込まれ、



 引き裂かれ、咲いた。



 赤白の玉は日輪と混じる。

 合一した二つは回転し、玉は軸をずらし、衝撃で飛び散った雲や塵や岩を引きずり巻きこみながらその旋回を強める。やがて、その飛び散った残骸は赤く燃えながら玉の外で徐々に凝り固まりだす。玉よりもやや小ぶりなそれもまた、やや歪んだ玉状に整えられてゆく。雲を纏いながら、徐々に、徐々に――、



 それを、じっと見つめる熊掌ゆうひがいる。



 悟堂は熊掌を呼ぶ。声は音にならない。ただ、意識の限りに呼びかけるしかない。しかし、届かない。

 そして、熊掌の背後には、一人の男がいる。

 なびく黒髪にまとわりつくあかい輝き。それと同じく赫い眼。男は表情もなくただ熊掌を見つめ、やがて男の存在に気付いた熊掌も男を見返す。


 それが、一体どれ程繰り返されたか。

 一体何年そうしていたのだろうか。


 自分が今、一体どんな状態にいるのか、悟堂には分からない。あの最後の瞬間、確かに自分の心臓と肺は射抜かれたし、そこには致命傷となりうる毒が仕込まれていた。自身に向けられた熊掌の絶望の表情を、今でも鮮明に覚えている。自分はもしかしたら、すでにその命を落としているのかもしれない。ならば、ここにいる熊掌と男は一体何なのだ。

 触れられもしない、届きもしない、この状態は一体なんだ?

 熊掌の声は男に届かないのか、男から熊掌に言葉を返す事はない。

 諦めながらも男に話しかけ続ける熊掌の姿を、恐らく何年もの間見つめ続けてきた。現に悟堂が知覚する熊掌の姿は、徐々に変容し、明らかに年齢を重ねてきている。

 ――重ねた変化は、外見だけではなかった。その表情に、たたずまいに、眼差しに思い知らされる。一体この歳月の内に、どれ程の絶望と苦渋があったのだろうか。頭を抱え膝を突いた姿も、涙の枯れた絶叫も、横たわったまま動かない背中も、何もかもをつぶさに見てきた。見る事しか、できなかった。

 己の全てを与えてやると誓った。どんな形になろうと、お前の命と体を守ると確かに口にした。それは心からの真実だった。だというのに、このざまは一体なんだ? 

 手をこまねくしかない己は、彼に何が出来た? 何をした? あの言葉で、あの夜で、自分が彼に与えたものは自分の全てなどではなかった。己が計らずも彼にもたらしてしまったのは――圧倒的な孤絶だ。

 熊掌の内からは、絶え間なく、淡くやわらかな花弁が漏れて出てゆく。まるで桜吹雪のようなそれは、確かに死屍しし散華さんげだった。解き放たれたその力は、やがて燃え盛る玉へと吸い上げられていく。その代わりに、玉からこぼれ出た業火のように耀く光の粒子がうずとなって熊掌に吸い込まれてゆく。


 そして、突如熊掌の全身が光の粒子となって霧散した。


 手を伸ばして名を叫ぶが声にならない、声が届かない。

 ここにいるのに、ここから見ているのに。

 かき消えた姿に、伸ばした手が力を失う。

 まただ、またこうして見失う。

 一体何年こうしてきたのか。そしてこれからもこうするのか。

 そう思ったその刹那、男の声が悟堂に向けられたのが分かった。


〈もう終わる〉


 はっと顔を挙げて男を見た。男は静かな眼差しを悟堂に向けている。



〈――全ては、お主の介在、お主の意志、お主の選択があっての事よ。待っていたぞ、お主の目覚めを。お主の覚醒で停滞はようやく終わる。――のう、贄の花嫁よ〉


          *


 ずるり、とした不快感が頭部をおおっていた。それは脳の内側にあった眩暈めまいと揺れによるものだった。不快感と嘔吐おうと感がい交ぜになった中、悟堂ごどうきしむ瞼を無理矢理にこじ開けた。


 白い光が目に刺さり、開けたばかりのまなこをぎち、とつむる。眉間をしかめていたものが、徐々にゆるめられ、ようやく薄目を開けられるまでにいたった。そうして、悟堂の双眸そうぼうに最初に映ったのは――一人の少年の姿だった。

 声を出そうとして、しかしそれは為されなかった。悟堂の喉は固まり切っていて、ただ、ぐふ、ぐふ、と咳き込む事しかできない。

 少年は近くに置いてあった椀を手にとると、その内へ指先を浸し、そっと悟堂の唇に触れさせた。

 わずかな水分だが、それで口内が随分とましになる。二回目、三回目と、徐々にうるおされる範囲が広がる。本能的に水を求めて、その指先を受け入れようと唇を開く。その爪が歯に、指の腹が舌にあたる。

 かすれ声ながらも、声らしきものが喉から漏れるようになった所で、少年は悟堂の身体をゆっくり助け起こし、今度こそ椀から直接水を飲ませた。ゆっくりと、確実に。

 悟堂は、その椀を受け取ろうと手を持ち上げた。途端、じゃらり、と音がする。

 目を向ければ、己の両手首には石環がめられていた。悟堂は吐息を漏らしながら数度目をしばたたく。目に映った己の両腕は、まるで餓鬼のように瘦せ衰えていた。夫々それぞれの石環からは、太い鎖が伸びている。鎖の行く先を目で辿たどれば――黒い闇が煙のように揺らいで、中途でその先端をくらましていた。


「――『かん』だよ」


 少年は、よどみなく静かな声音でそう告げた。悟堂は少なからず困惑する。長い眠りから覚めた己が最初に目にする人物として、この少年は穏当とは思われなかったからだ。

 ぞろりと、全身を覆う程長く伸ばされた白髪。変わらない美少女然とした風貌。――熊掌ゆうひとはまるで違う、違う種の生命。

「御子、どうして」

 少年――食国おすくには静かに溜息を落とすと、悟堂から身を放し、片膝を立て、その膝に預けた自身の腕に口元を埋めた。ふい、と瞼が閉ざされる。



「久方ぶりだな、げついぬよ」



 耳に届いた聞き覚えのある声は、食国のものではなかった。



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