あの人の好きなところ

 帰って来たのは、きっと義真だろう。宗克むねかつならば、「ただいま」と案外礼儀正しい声が廊下に響くはず。義真とて、無言で帰宅するわけではないのだけれど、なにぶん囁くような「ただいま」である。客間までは届かない。きぬは、澄に「お団子食べててね」と告げてから、玄関へ迎え出る。


「お帰りなさい」


 いつものように帽子を預かる。冬の乾いた外気の匂いが、ふんわりと鼻をくすぐった。軽く顎を引いて答える義真の様子はいつも通り。疲れているのかいないのか、感情の読めない頬をしているのだが、勝色かついろの翼が幾らか萎れているように見えるので、活動時間相応に疲労は蓄積しているのだろう。玄関に揃えられた見慣れぬ下駄を一瞥してから、義真は目で問うた。誰か来ているのかと。


「澄さんがいらしているの」


 きぬは義真の墨色すみいろの袖を引く。極度の人嫌いとはいえ、きぬに連れられれば、素直に客間に来てくれる。定期的にやって来る澄のことは、もう慣れたのだろう。他のご近所さんに対するよりも、幾らか態度が柔らかいようだった。


「あ、奄天堂さん。お邪魔しております」


 澄が座布団の上で礼儀正しく頭を下げる。義真はいつものように会釈で答え、深緑色の皿に一つだけ残されたみたらし団子と、その脇に伏せられた『黎明』にちらりと視線を向けてから、廊下に戻って行く。不愛想な背中を見送っていると、彼は書斎に吸い込まれて行った。


「奄天堂さん、今日は少しお疲れみたいですね。ほら、なんかこう、翼が元気ないみたい」


 湯呑ゆのみを両手で包むようにして傾けながら、何気ない調子で言った澄。とうとう彼女も義真の翼と目で意思疎通ができるようになったのだろうか。妙に感慨深いきぬであった。


「そういえばきぬさん。奄天堂さんは初対面の時から寡黙だったんですか? その……いつから惹かれ始めたんでしょう」


 きぬの思考を読んだかのような質問だ。きぬは、もはや懐かしさすら覚える、あの雷雨の日を思い出す。自分が何者かも分からず、生きる意義にすら疑問を抱くほど、傷だらけだった。一人地面に突っ伏し、ただ雨に打たれ、震えていた。そんな時、きぬの世界に義真が現れた。


 雨に打たれ濡れそぼり、半ば膨らんだ勝色の翼。その影は、きぬが唯一大切に持ち歩いていた、縮緬ちりめん巾着きんちゃくに刺繍された紋にそっくりだった。もちろん、義真と抱きかえでの紋には、なんら関連性はないのだけれど、彼を一目見た瞬間、妙な親近感を覚えたのは確かである。その時に感じた思いは、紛れもなく。


「運命だと思ったの」


 思わず呟く。澄が少し目を見張り、口を閉ざす。きぬは過去に思いをせながら、言葉を紡いだ。


「運命だから、最初から惹かれていたんだと思うの。ほらこれ、見てくれる?」


 きぬは、いつも首から大切に掛けている巾着を取り出した。澄がやや腰を浮かし、きぬの手元を覗き込む。


「巾着。何か刺繍が……あ、もしかして」

「気づいた? 家紋みたいなの。多分、私の家族と関係があると思うんだけれどね」


 経年による劣化で色あせた巾着の表面を撫でる。両側から何かを包み込むかのような紋。その斜め下には「きぬ」の文字。果たしてこれが、本当に名前なのは分からぬのだが。


「義真さんと出会った時、私は空っぽだった。生きているのに生きていないような人間で、唯一この巾着だけが、家族と繋がる目印だった。中身がすっからかんの私の目に、初めて映ったのはあの人。同じ印を背負った義真さん。あ、もちろんそれ以外にも素敵なところがあったから好きになったんだよ」

「たとえば?」

「うーん」


 きぬは斜め上に視線を向けて、思考をまとめる。


「全然喋らないのに、翼の動きに大抵の気持ちが滲み出ているところとか?」

「あ、確かに」


 空気が可愛いよね、と二人で笑い合う。その時、意図したような間合いで隣の書斎から低い咳払いが聞こえたけれど、きっと偶々たまたまのことだろう。

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