いつでも思い出すのは

 花火大会の翌朝、街に下りて、一人考えた。己にとって、きぬは何者なのだろうかと。答えは出ない。だが、きぬの静かな笑顔が消えた毎日を想像すれば、腹の奥に大きなしこりを抱えたような苦しみを覚える。


 きぬを小屋から追い出すことなどできないし、したくもない。けれどもこのまま一生を山で過ごして、彼女は果たして幸せなのだろうか。智絵のように、その身を病んでしまいはせぬだろうか。そうなればどちらにしても、彼女の笑顔はしぼんでしまう。


 「戸籍の件をよろしく頼む」と、例の医師に告げようかと迷う。けれども結局、街を徘徊はいかいしただけで一日目は終わった。柄にもなくぼんやりと河原で過ごしてしまい、予期せぬ雨に降られ、慌てて安宿に駆け込んだ。


 きぬは今晩、一人きりで過ごすのだろう。きっと、作り過ぎた夕餉ゆうげをどうしたものかと思い悩んだ末、悪くなってしまう前に、と自分自身で完食するはずだ。


 なぜそうも華奢なのか不明なほど、きぬはよく食べる。消化器官がどこかおかしいのではないだろうかと心配になり、診てもらったこともあるのだが、往診医は苦笑交じりに「問題なし」と診断を下していた。


 翌朝になっても、雨粒は街に打ち付けていた。本日の雨は絹糸を垂らしたかのように細い。故郷の里では、養蚕ようさん生業なりわいとしていたなと思い出す。


 実家では、繭玉まゆだまの出荷を行っていたので、一度製糸場を見学したことがある。洋燈ランプの薄明りをちらちらと反射し、絹糸が巻き取られる様子が鮮明に脳裏に蘇る。、と呟いて、義真はまた胸の痛みを抱えた。


 しばらくして、雨雲が切れ間を見せた隙に、義真は宿を出て河原に向かった。土手に沿うように歩を進め、飴細工の屋台に人だかりを見つけ、先日の花火大会を思い出した。


 腹に響く低い破裂音と、彩り豊かな炎の徒花あだばな。濃紺の空に描かれる、儚い光の芸術。美しいはずのそれを見て、きぬは怯えた。どうすることもできず、ただ狼狽しただけの自分に失望さえした。


 不意に、飴細工屋に集った子供らが歓声を上げた。そういえばきぬは、あれを物欲しそうに見ていたな、と思い出せば、自身の心を占領するきぬの存在に気づき、無意識にきびすを返していた。彼女の手を放したくない。過去に何があったとしても、いつかはどこかへ去って行く者だとしても。


 そうして義真は医師に会うため診療所に行き、それから数日を手続きに奔走し、やがて五日目に、子供騙しのように兎の飴細工を手土産にして帰宅する。


 夕刻にやっと辿り着いた自身の小屋。半開きの扉から、内部を覗き込む。闖入者ちんにゅうしゃに酷く荒らされた様子の室内にはきぬの姿がない。柄にもなく気が動転し、無様にも老天狗の家に助けを求める。そこでいつもの通りぼんやりとした眼差しのきぬを見つけた時、もう二度と彼女を一人になどするものかと、心に決めた。


 きぬを初めて抱いたのは、例の山賊……もとい、野犬騒動により畳が水没してしまった日の晩だった。


 工夫をすれば、畳をもっと戻すこともできたのだけれど、彼女の側にいるためにあえて少なめに敷いてみれば、純朴なきぬは何も疑わなかったようだ。


 夫婦になる口約束をした。たったそれだけのこと、何の免罪符にもならぬとは思ったが、どうにもとどまれなかった。


 床を共にし、それが彼女にとっての初めてではないことを知る。そのこと自体には、何の負の感情も湧かないのだが、きぬが既婚者であったのではないか、という懸念が心に黒いもやを落とす。


 そして、なめらかな肌に指を滑らせ、背中に刻まれた引きれて痛々しい火傷の痕を撫でながら、彼女の過去はきっと、良いものではなかったのだと、必死で言い聞かせる己を自嘲じちょうするのである。


 ともすれば、そのまま暗黒の深淵に心を落としそうな義真の耳に、きぬが囁いた。「綺麗じゃなくてごめんなさい」と。束の間、何を言われたのか理解ができない。


 きぬは純粋で、心持ちが美しい。陽に透けると赤茶色を帯びる艶やかな黒髪と澄んだ瞳が、この上なく綺麗だ。一体何が「綺麗じゃない」というのか。義真が何も答えないからか、彼女が悲し気に身じろぎしたことに気づいた頃になって、やっとその意図を理解した。


 義真が初めての男ではないことも、その背に傷痕を持つことも、彼女の美しさを損なう原因にはならない。義真は抱きしめたままの細い腰を引っ繰り返し、「きぬは、綺麗だ」とその傷に口付ける。きぬは身体を震わせて、小さく甘美な吐息を漏らしてから、義真の背中、翼の付け根辺りに腕を回してしがみ付いた。


 それから季節が過ぎ、木々の葉が赤に黄色に彩りを誇るようになる頃、きぬは無事に戸籍を取得する。あの晩から三か月ほど経ち、やっと二人は家族になったのである。


 智絵のことは、決して忘れない。忘れようがない。智絵は義真を好いてはいなかった。義真とて、智絵を慈しみはしたのだが、どうにも重ならぬ心に戸惑うばかりであった。それでも義真の心には、彼女が遺した深い傷がぽっかりと穴を空けている。


 ふとした拍子にきぬの姿と重ね合わせ、きぬが消えやしないかと怯える。その度にきぬは、微かに首を傾げながら、微笑むのだ。


 その顔を見れば、胸のうずきは冗談のように消え、また思いもよらぬ場面で再発する。しかしそれもまた、きぬはその純真な眼差しで、意図せずともおさめてくれるのだった。 

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