きぬ、を拾う
Ψ
足元に転がる布が、人間の着物の袖であると気づいたのは、それが身じろぎしたからだった。
昨日まで降りしきっていた豪雨は止んだものの、その人間は泥に
「助けて」
潰れたような、苦し気な声音だった。義真は
細く、驚くほど小さなその身体を腕に抱いた時、まさか成人とは思わなかったほどだ。少年が倒れている。そう考えて、義真は住処である自分の小屋に、息も絶え絶えの人間を保護した。
その後、あまりにも汚れていたので身体を布で拭ってやろうとして、それが女性だと気づき、慌てて隣山に飛んで千賀の助けを乞うたのである。
きぬが
きぬは怪我から快復すると、千賀や俊慶に可愛がられながら、心健やかに過ごしていたようだった。保護した日、きぬの身体を拭った千賀が、その素肌を見て、「この子は暴力を受けていたのでは」と言ったので、智絵のように心を病むのではないかと憂いたが、その気配は
千賀に詳細を問うてみれば、老天狗は勘違いかも知れぬが、と前置いてから、後日控えめに語った。
「腕にね、強く握られたような指の形の痣があったんだよ。背中には火傷の痕もあって。そんな場所、普通に過ごしていたら火傷なんてするもんか」
それにしては、きぬは無邪気だった。壮絶な過去があったとするならば、知らぬ天狗を恐れもするだろうし、義真と二人きりで小屋にいることなど、恐怖でしかないはずだ。しかし彼女はそんな素振りを見せず、むしろ雛鳥のように義真に懐いてきた。
ある時から、彼女が義真を見る目が、雛鳥のそれではなくなったことに、義真は気づいていた。
きぬはいつも気が利いて、義真が日がな本の虫になっていても、常に上機嫌で微笑みを絶やさない。静かな空間を共有し、互いに居心地の良さを感じている。智絵とのことがなければ、もっと早く彼女を欲しいと思っただろう。
それを除いても一線を越える勇気が出なかったのには、明確な理由がある。きぬの家族が迎えに来れば、彼女を手放さなくてはいけなくなるからだ。
義真は甲斐性のない男である。自身でもそれを痛いほど理解している。
特別美人という訳でもないのだが、きぬには周囲を捕らえて離さぬ不思議な魅力がある。きぬほどの気立ての女であれば、もっと良い相手がいるはずだ。ましてや義真は天狗なのだ。
そもそもきぬの年頃であれば、とうに嫁いでいても不思議はない。夫や子供が、彼女を取り戻しにくるかもしれない。
だから義真は、きぬの過去を探った。知り得た彼女の過去が、聞くに耐えぬほど壮絶で、義真の側にいる方が幸せなのだとしたら。このまま同じ小屋で過ごすことにも意味がある。
だが、千賀の想定など的外れで、きぬの過去がもし幸福に満ちたものだったのなら。手遅れになる前に、きぬを元の場所に帰さなくては。そうでなくとも「人間は群れで生きる動物」なのだから。
街に下りる口実がある日には、きぬの巾着に刺繍された抱き楓の紋を頼りに、過日の足取りを探った。しかし、芳しい結果はない。
智絵の主治医だった往診医に、きぬも診てもらっている。智絵との過去を知る彼は、義真がきぬとの関係性に思い悩んでいることに、気づいていたのだろう。きぬが山を好んでいることを知っていた往診医は、きぬの戸籍を新たに取得することを提案してくれた。
「何か月経っても、きぬさんのご家族は失踪届けすら出しません。もしかしたら、一家心中とか、殺人事件とか、そういった事情で家族がもういないのかもしれません。以前あなたに、人は群れで生きる動物であると言いました。そのことは変わりませんが、きぬさんはあなたと隣山のご夫妻という小さな群れの中で、幸福になれる人間かもしれませんね」
その言葉は、義真の背中をわずかに後押しした。だからと言って、軽々しい気持ちできぬを手元に置く決断はできなかった。彼女がそれを望んでも。
あの花火大会の宵、縋りつくような彼女の温もりを胸に感じながらも、一歩踏み出せず、翌朝逃げるように山を下りた自分の不甲斐なさ。思い出すだけでも
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