人間というもの

Ψ


 義真と智絵は、幼少の頃より顔見知りだった。二人が住んでいた里は、こじんまりとしていて、天狗と人間が何の疑問もなく隣人として共生する場所。山間部には、古くからそういった村が多い。


 都会の人間と天狗が出会うようになったのは、鉄道網が発展してからである。西洋列強がこの島国をねじ伏せんとし、舶来はくらいの品や技術が清濁せいだく併せて奔流となって流れ込む。持ち込まれた蒸気機関の技術により、山と平地、つまり天狗の土地と人間の土地の往来が気軽になり、互いに異質なものとして排斥はいせきの対象となったのだ。


 対して中央政府は、天狗と人間の分離戸籍を廃止。四民平等しみんびょうどうの流れも汲み、天狗と人間は、表面上は同胞同士として扱われるようになる。


 だが、そもそも遥か昔より共存関係にあった地域の住民からすれば、そのような国の施策や、都会の民の偏見など、遠い異国の話のようだった。義真と智絵は、特別親密ではなかったけれど、互いに対する嫌悪感など抱きようもなく、平和な幼少期を過ごしていた。義真が十三の頃に生まれた宗克も、智絵に懐いていたと記憶している。


 幼い宗克を背負い、智絵や他の子供らとよく遊んだものだ。夏には川で水浴びをして、晴れた冬には山麓さんろくにある寒菊かんぎく自生地じせいちで日向ぼっこをした。


 義真が学業のために里を出て、近隣の天狗の街へ向かう時も、里を上げての壮行会に彼女も参加をしてくれた。義真と同い歳である智絵は、一度隣村に嫁いだのだが、夫に早世そうせいされ、子もなかったので里に出戻っていたのだった。


 それから学校を卒業し、その街の出版社に勤めてしばらく。人気雑誌で連載していた小説家がまさかの出奔しゅっぽんをし、苦し紛れに代筆した小説が大当たりをして、義真は作家となる。ちょうどその頃、故郷の両親より智絵との縁談を持ち掛けられて、晴れて祝言しゅうげんを挙げたのだった。


 義真の仕事の都合上、智絵を天狗の街に連れて行ったのは、あやまちだった。故郷の里では天狗も人間も隣人として暮らしていたが、街に出れば人間である智絵は異質な存在である。


 周囲の好奇の視線を浴び、時には心無い言葉を投げかけられていたらしい。不甲斐なくも義真はそれに気づかなかった。そして智絵も、そんな素振りを見せなかった。


 智絵は夜な夜な咳込むようになり、酷くなると喉から笛のような音を立てて苦しみだす。とうとう呼吸に支障が出る頃になってやっと、彼女は医者にかかった。気管支に問題があるという。おそらく心理的なものが要因ではないか、という診断だった。


 義真は出版社を辞め、智絵と共に空気の澄んだ山に越す。天狗の集団から逃れ、静かな自然の中で療養をするためだ。隣山には天狗が住んでいたけれど、その老夫婦は共存地域出身だということで、智絵にも分け隔てなく接してくれた。


 一時いっときは、智絵の体調は快復した。だが、山での静謐せいひつな暮らしが数か月続くと、智絵は時折ぼんやりと、遠くを眺めるような目をすることが増えた。どうしたのか問うてみても、彼女は「なんでもない」と首を振るだけである。


 それからしばらくして、智絵の主治医である往診医は、義真に言ったのだ。


「人間は、群れで生きる動物です。この山で人間の輪から外れてただ日々を過ごすのは、彼女にとって苦痛でしょう。心労を排除するためにも、一度ご実家に帰されてはいかがでしょう」


 人間は天狗よりも小柄だし、敵に追われた際に滑空して逃亡するための翼もない。天狗と比べて、か弱い生き物だ。だからこそ彼らは、同胞同士の輪に属すことを好み、それが成しえない時、とてつもない心理的負荷を被るのだ。義真はその日、初めて知った。


 義真は翌日、智絵に実家へ帰るよう提案した。智絵は驚きこそしたが、拒否はしなかった。彼女にとって、義真はただのかせだったのだろう。


 智絵の様子に情けなくも打ちひしがれた義真は、自身のみ山に残り、智絵の快復を独り待つことにしたのである。出立の日、智絵は「共に帰りましょう」とは言わなかった。それが、全ての答えだった。


 その数か月後、智絵の訃報が耳に入る。弟である宗克むねかつが、山を登って義真にその報せを届けてくれた。智絵は、実家に帰った頃にはもう、心を病んでいて、義真を山に置き去りにしたことへの罪悪感も重なり、ついには肺の病を得て、呆気なく眠りについたのだという。


 宗克は義真を責めた。当然だ。宗克にとって智絵は義姉であり、幼少の頃より可愛がってくれたご近所のお姉さんだった。


 宗克と共に山を下り、智絵の墓を参らせてくれと故郷に帰ったが、智絵の家族はその願いを受け入れない。


 兄と義姉家族の確執かくしつが里中に知れ渡り、居づらくなった宗克は、隣村の叔父一家の家で暮らすようになる。表向きは母の体調不良が理由とされていたが、里の誰もが、宗克が里を出た経緯を知っていた。


 義真は、疫病神やくびょうがみだった。水面みなもに映るこの黒い翼が、不幸を運ぶ物の怪の一部のようにすら見えた。智絵は、義真と結ばれなければきっと、今も健やかに暮らしていただろう。宗克も、血の繋がらぬ天狗の兄さえいなければ、故郷を出る必要もなかった。


 だから、義真は山に帰り、生涯一人きりで命を終えようと思っていた。あの日……あの紫色の、雷雨の日までは。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る