第四話 山を下り塔に上る

朝顔の便箋

 きぬは、静かだが明るい。その相反あいはんするような魅力に、義真ぎしんの心は捕らわれたのである。


 彼女の目は、全てを見透かすかのように透き通る。濡れ縁に降り注ぐ陽光を浴び、やや赤茶色を帯びる瞳。その目に射抜かれると、義真はもう反発などできないのだ。


 この日もきぬは、無邪気なまでの朗らかさを保ちつつ、穏やかな眼差しでこちらを見つめる。


「義真さん! 千賀せんがさんからお手紙が来たの」


 朝顔模様の描かれた便箋びんせんを、胸に抱いたきぬ。心から嬉しそうに言うので、微笑ましい心地でそれを眺める。この頬はいわおのように動かぬことを知っていたが、別にあえて表情豊かになろうとはしなかった。顔など変わらなくとも、どうやってか知らぬが、きぬは義真の心が読めるらしかった。


 千賀と俊慶しゅんけい夫妻には大分世話になった。だから彼らが義真らを案じて頻繁に手紙をくれることは、ありがたい。


 きぬは、しばしこちらの反応をうかがってから、何やら満足気に頷いた。その緩んだ頬に気づいたが、何が面白かったのかせぬ。きぬがこのような思わせぶりな笑みを見せる時は決まって、義真の肩の辺りの輪郭をぼんやりと見遣っている。ちょうど、翼が影を落とす辺りである。


 言葉なく、そのまま見つめていると、彼女は便箋を大切そうに封筒に収めて言う。


「何て書いてあったと思う」


 わからぬ。気の利いた回答を思案し、無駄な言葉選びをしてしまう。遅すぎる返答を、きぬはいつだって気に留めない。一人で問答をして、義真が口を開く前に、勝手に回答をした。


「こっちに旅行に来るんだって。来週に!」


 膝を痛めがちな千賀のこと。やや離れたこの都会までやって来るのは難儀なんぎではなかろうか。義真の顔を見て、きぬもそのことに思い至ったらしく、一転して難しい表情になる。


「あ、そうだよね。千賀さん、どうやって来るんだろう。飛んで来るにしては標高差がないし。それに、人間ばかりの街に来て、嫌な思いしないかな」

「天狗の前例なら俺がいる」

「うん、でも」


 先ほどの高揚感はどこへやら。きっと、義真がこの街で好奇の視線に晒されて、最近は「天狗先生」などと呼ばれていることを、気にしているのだろう。


 どうやら、きぬの友人……なのであろう、よく家に現れる女学生、大迫澄が、奄天堂の天狗は、この島国一番の発行部数を誇る月刊誌『黎明』で連載している小説の著者であるのだと、近所でぽろりと口を滑らせたらしい。噂は漏れ出た水のようにじんわりと広がり、町中に知れ渡った。


 別に澄が悪いとは思わない。ましてや、きぬが気に病む必要はない。そもそも、気乗りしない様子のきぬを、この街に連れて来たのは義真である。


 だから、気にするな。きっと、千賀も俊慶も気分を害すことはないだろう。そんな思いで視線を遣れば、きぬは柔らかく微笑んだ。


 たったそれだけのやり取りで、心が通じ合うような気になれる。きぬは、人の心の機微きびを察する才能にけているようだった。それは生来の物だろうか。それとも、彼女が身を置いてきた環境がそうさせたのだろうか。


 都会……それも人間の街に越して来たのは、恩師に教鞭きょうべんを執って欲しいと頼まれたからだった。ただし、それだけではなく、きぬの過去を探る手掛かりがあるかもしれないと期待したからでもある。


 念のために述べておけば、義真がきぬの記憶を探るのは、きぬを元の居場所に戻したいからではない。思えばあの山で、まだ夫婦にならず二人きりで小屋に住んでいた頃であってさえ、別にきぬをうとましく思ったことなどなかったのだ。彼女はいつも穏やかに微笑んで、義真の全てを察し、受け入れる。その優しさと一途な眼差しに、かれこれ一年も甘えて来たのだろうと思う。


 どんなものかは知らぬが、きぬにも過去がある。産み育てた親がいて、もしかしたら義真ではない夫がいたのかもしれない。きぬが義真を好いているのは、ただの依存心ではないだろうか。雛鳥ひなどりが最初に目にした者を親だと思うように。今ですら、ふと思い至り、寂寥せきりょうを覚えるのだ。


 彼女の過去が知りたい。そのうえで、自らの意志で選択をして、側にいて欲しい。はさせない。そう心に決めていた。


「千賀さんに、お返事書くね。いつでも来てくださいって。あ、宗克さんっていう書生さんが同居してるって言っておかないと」


 きぬはいつも、少しのんびりとした口調で喋る。所作も大人しい。きぬは便箋を抱いたまま、ぼんやりとした仕草で茶の間へと戻って行く。宣言通り、返事を書くのだろう。


 この日も常と変わらぬ様子に、義真はほっと息を吐く。彼女がいつか、その健やかな心と身体を失って、この家を去る日が来るのではないか。そんな恐怖を抱く時、義真は決まって己の行動の矛盾に戸惑いを覚える。きぬの記憶を呼び覚ますことは、きぬを失うことに近づく行為なのかもしれない。それにもかかわらず、どうしても手がかりを求めてしまう。


 その訳は、明白だ。義真の胸の奥深くに刻まれた、決して癒えることのない深い傷。六年前に死んだ前妻、智絵が遺したものである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る