第四話 山を下り塔に上る
朝顔の便箋
きぬは、静かだが明るい。その
彼女の目は、全てを見透かすかのように透き通る。濡れ縁に降り注ぐ陽光を浴び、やや赤茶色を帯びる瞳。その目に射抜かれると、義真はもう反発などできないのだ。
この日もきぬは、無邪気なまでの朗らかさを保ちつつ、穏やかな眼差しでこちらを見つめる。
「義真さん!
朝顔模様の描かれた
千賀と
きぬは、しばしこちらの反応を
言葉なく、そのまま見つめていると、彼女は便箋を大切そうに封筒に収めて言う。
「何て書いてあったと思う」
わからぬ。気の利いた回答を思案し、無駄な言葉選びをしてしまう。遅すぎる返答を、きぬはいつだって気に留めない。一人で問答をして、義真が口を開く前に、勝手に回答をした。
「こっちに旅行に来るんだって。来週に!」
膝を痛めがちな千賀のこと。やや離れたこの都会までやって来るのは
「あ、そうだよね。千賀さん、どうやって来るんだろう。飛んで来るにしては標高差がないし。それに、人間ばかりの街に来て、嫌な思いしないかな」
「天狗の前例なら俺がいる」
「うん、でも」
先ほどの高揚感はどこへやら。きっと、義真がこの街で好奇の視線に晒されて、最近は「天狗先生」などと呼ばれていることを、気にしているのだろう。
どうやら、きぬの友人……なのであろう、よく家に現れる女学生、大迫澄が、奄天堂の天狗は、この島国一番の発行部数を誇る月刊誌『黎明』で連載している小説の著者であるのだと、近所でぽろりと口を滑らせたらしい。噂は漏れ出た水のようにじんわりと広がり、町中に知れ渡った。
別に澄が悪いとは思わない。ましてや、きぬが気に病む必要はない。そもそも、気乗りしない様子のきぬを、この街に連れて来たのは義真である。
だから、気にするな。きっと、千賀も俊慶も気分を害すことはないだろう。そんな思いで視線を遣れば、きぬは柔らかく微笑んだ。
たったそれだけのやり取りで、心が通じ合うような気になれる。きぬは、人の心の
都会……それも人間の街に越して来たのは、恩師に
念のために述べておけば、義真がきぬの記憶を探るのは、きぬを元の居場所に戻したいからではない。思えばあの山で、まだ夫婦にならず二人きりで小屋に住んでいた頃であってさえ、別にきぬを
どんなものかは知らぬが、きぬにも過去がある。産み育てた親がいて、もしかしたら義真ではない夫がいたのかもしれない。きぬが義真を好いているのは、ただの依存心ではないだろうか。
彼女の過去が知りたい。そのうえで、自らの意志で選択をして、側にいて欲しい。智絵のようにはさせない。そう心に決めていた。
「千賀さんに、お返事書くね。いつでも来てくださいって。あ、宗克さんっていう書生さんが同居してるって言っておかないと」
きぬはいつも、少しのんびりとした口調で喋る。所作も大人しい。きぬは便箋を抱いたまま、ぼんやりとした仕草で茶の間へと戻って行く。宣言通り、返事を書くのだろう。
この日も常と変わらぬ様子に、義真はほっと息を吐く。彼女がいつか、その健やかな心と身体を失って、この家を去る日が来るのではないか。そんな恐怖を抱く時、義真は決まって己の行動の矛盾に戸惑いを覚える。きぬの記憶を呼び覚ますことは、きぬを失うことに近づく行為なのかもしれない。それにもかかわらず、どうしても手がかりを求めてしまう。
その訳は、明白だ。義真の胸の奥深くに刻まれた、決して癒えることのない深い傷。六年前に死んだ前妻、智絵が遺したものである。
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