作戦中止、それとあんみつ

「ぎ、ぎそう?」


 咄嗟とっさに思考が追い付かない。ぎそう、とは、事実を偽るという意味合いの、あの偽装だろうか。澄の困惑顔が面白かったのか、園田は咳払いをするように笑った。


「そう、偽装。いや、清嗣せいじさん……君のお父上から相談を受けてね。何でも職場のお偉いさん経由で、澄さんを欲しがっている人がいるって話が出たらしいんだよ。無下むげにはできない相手だし、どうしようかと気を揉んだらしくてね。それで僕に偽求婚者を装えと話があったんだ」


 こういうのは先に話を進めた者勝ちだからね、黙っていてごめんね、と軽い調子で言う園田に、澄の脳内は過剰回転で爆発しそうだった。


「偽……」

「だって、おかしいだろう。澄ちゃんは僕にとって娘みたいなものだ。君も僕みたいな、お父上と同年代の男を、異性として見たことなんてないでしょう」

「それは、そうですけど」


 澄は呟くように答えつつ、情報を整理する。父と園田は共謀していたということか。今日の今日まで澄に知らせなかったのはなぜだろうかと思ったが、事の真相を知っていたら、あのお堅い壽々子がこの縁談を形ばかりでも進めるかといえば、答えは否だろうと思えた。全てはきっと、壽々子の目をあざむくためなのだろう。


 しかしなぜ、本当の縁談は握りつぶされたのだろうか。思考を巡らせる澄の表情を穏やかに見つめていた園田は、白い物が混じる頭を軽く掻いてから、言った。


「澄ちゃんに縁談を申し込んだのは、西の方にある職人連所属の若旦那で、一度婚姻歴がある。何でも、前の奥様は出奔しゅっぽんして、崖から落ちてお亡くなりになったんだって」

「出奔……。不倫して心中したとか何かですか」


 思わず言ってしまってから、はしたない発言だったかと慌てて口を閉ざす。町内の四方山話よもやまばなしや大衆雑誌の下世話な記事に汚染されたような思考。壽々子が聞いたら卒倒するだろう。けれども園田は気に留めなかったようだった。


「いや、それらしい男性とは一緒じゃなかったらしい。これは噂だけど、その若旦那、家庭内で問題行動が多かったらしくてね。耐えきれなくなった奥様が逃げ出して、運悪く崖から落ちたんじゃないかって」

「暴力とか?」

「色んな噂があるけれど、その可能性が高そうだねえ」


 それが真実だったならば、何とも不憫な話である。


「ともかく、噂とはいえ、そんな男に大事な澄ちゃんを嫁がせる訳にはいかない。だからしばらく、僕らの縁談は順調であるように見せかけないと」

「その若旦那さん、諦めてくれるんでしょうか」


 園田は肩を竦めた。


「すでに他の娘さんを探し始めているって聞いたから、もうしばらくの辛抱だろう」

「なんて無節操な人」

「澄ちゃんの言う通り、ろくな奴じゃないさ。まあ、仲人がお偉いさんだからあんまり悪くは言えないのが、役所勤めの悲しさだよね」


 言葉の割に楽しそうな口調で言う園田。彼は昔から、傘を忘れた日に夕立に打たれても、意図せず穴の空いた草履ぞうりを履いた日に猫の糞を踏んづけても、あっけらかんと笑う人だった。


「いや、でもびっくりしたよ。君が壽々子さんに、僕と二人っきりになる提案をしてくれるとは。こちらとしても、真相を告げるために壽々子さんには離席してもらいたかったんだが、まさか君のほうから」

「ええ。今日は小父様に、私の本心をお伝えしようと思っていたので」


 実は二人きりになれてから、あれやこれやと宗克と練った作戦を駆使し、何とか破談に仕向けようとしていたのだが。あいにく、作戦の出番はなかった。結局宗克の悪知恵は出番を失ったのだが、終わり良ければすべて良しである。あの青年には、みつ豆でも買ってお礼をしてあげよう。


「まあ、あまりにも早くこの茶番見合いが終わるのも、壽々子さんに勘付かれかねない。どれ、小父さんに近況報告でもしてくれるかい」

「もちろん。でも何が興味深いかしら」


 園田は顎に手を当てて思案してから、手を叩いた。


「今、女学校では何が流行っているんだい。文具屋のおじいさんから、売れない売れないと陳情ちんじょうが来るんでね。流行り物の情報を提供したら喜んでくれるかと」

「そんなこともお仕事のうちなんですか……? うーん、流行りですか。そうですね……」


 商売が上手くいかないのは行政のせいではなく、自業自得なのでは、と思いつつも、友人である美弥子みやこりつの顔を思い浮かべながら、教室での光景を脳裏に蘇らせる。可愛らしい文房具は、少女のたしなみ。澄は園田に思い付く限りの情報を伝えつつ、彼に対し、半ば呆れにも近い思いを抱いていた。


 園田がこの年齢まで独身である理由は、言うまでもない。日常の全てのことを職務と結び付けて考えてしまうからだ。彼にとってはきっと、仕事が愛妻なのだろう。


Ψ


 夏の陽射しが照り付ける。いつもの路面電車停留所に、いつもの三人組。この日も澄は、美弥子みやこりつを先に帰し、周囲の視線を窺いながら、寄り道をする。


 向かうは通りの向こう側。赤煉瓦の角を二度ばかり曲がった先、菓子屋の並びがある辺り。例の絶品みつ豆屋は、本日も大繁盛だ。もちろん、列には並ばない。学校帰りに一人、周囲に気遣いながら買い食いをするほど、澄は心が強くはない。お目当ては持ち帰り用の、竹筒に入ったあんみつである。


 夕刻、行列はおさまることを知らないようで、店内に陳列された竹筒はだいぶ数を減らしたらしかった。順番を待ち、いよいよ澄の番。店頭に並ぶあんみつは残り少ない。


 澄は巾着きんちゃくを揺らして、心許こころもとない所持金を確認する。このあんみつという甘味、案外お値段が張るのだと知った。みつ豆よりも少し高い。粒あんはそれほどまでに、原価が高かっただろうか、と不審にもなるが仕方ない。


「何買います?」


 巾着を揉んでから制止した姿をいぶかしんだのか、紺色の前掛けをした従業員に訊かれ、澄は覚悟を決めた。みつ豆の方がお財布には優しいのだけれど、こちらには、あんこが乗っていない。それでは宗克は残念がるだろう。


「みつ豆……。いいえ、やっぱりあんみつください!」


 縁談のこと、将来のこと、相談相手になってくれた青年に、礼の一つくらい必要だろう。頬に黒いあんこを付けながらの対応だったことは、この際気にしない。


 あんみつを抱えて店を出る。とうに学友は帰宅しただろう。数本遅れの路面電車に乗って、澄はいつもの住宅街に帰る。この後向かうのは池で鯉が跳ねる自宅ではなく、柿の木が一本だけ生えた庭を臨む、奄天堂家の門である。



第三話 終


 

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