濡れた畳とお煎餅

Ψ


 飴細工で求婚した男。その称号をいたく気に入ったらしい千賀は、しばらくの間、義真をからかった。あの饒舌じょうぜつさが嘘のように元の寡黙天狗に戻った義真は、ただ迷惑そうな顔をして聞き流すだけである。その日は夜も更けていたので、老夫婦の家に義真も一緒に泊まらせてもらった。


 後日千賀が語ったことによれば、この度の義真の外出は、きぬの戸籍に関する調整だったのだという。


 記憶がない。きぬと条件が一致するような行方不明の届けもない。身元を特定するのは、骨が折れる。ひょっとすると不可能かもしれない。それならば新たな戸籍を取得する手続きが必要だ。

 

 時々、きぬを診察しに義真の小屋を訪れてくれる医者は、彼の知り合いだったらしく、本来は煩雑な手続きが必要となるところ、特別に診断書を出してくれたのだという。義真はそれを持って、戸籍発行の手続きに奔走していたのである。後はきぬが役所に赴き、所定の手続きを踏めば一件落着。この段階まで一言もきぬに告げなかったのは、さすが義真と言ったところか。


 それにしても、彼は本心から、「戸籍がないから妻にはできない」と考えていたのか。ひねくれた見方をしてしまったことに申し訳なさを覚えたきぬだった。


 嵐の夜の翌朝は、空気が凛と澄んだ晴天で、きぬと義真は並んで山を下り、もう一度ぬかるむ山道を登って小屋に帰った。


 義真が告げたとおり、空き巣にでも入られたかのように室内は散乱し、半ば開け放たれたまま放置されていた扉から入り込んだ泥や枝葉が、いたるところに飛び散っている。


 ところが調べてみると、貴重品の類には手が付けられていない。これは金目当ての犯行ではなさそうだ。「おかしな空き巣だね」と呑気に言ったきぬだったが、室内を片付ける中、畳に刻まれた深いひっかき傷を見つけ、思わず声を上げる。


「獣!」


 そう、どう見ても野犬か何かの爪痕である。空き巣の正体が人間でも天狗でもなく、野生動物だったのなら。貴重品に手が付けられていないのも納得だ。人間や天狗がありがたがる貨幣や金銀のたぐいなど、野に生きる者らからすれば、ただの石ころと大差ないものなのだから。きぬの声に促された義真もその痕跡を見下ろし、なるほど、と頷いたのだった。


 水没した畳は、専門家に任せるのが良い。義真が街まで一飛びして話を付けて来てくれたものの、この家は山の上にある。今日の今日では対応できないと言われ、やや不機嫌顔の義真が帰ってきたのはすでに夕刻。


 晩夏、まだ陽は長いとはいえ、西日が差し込む時刻だったため、仕方なく、半乾きの畳を数枚戻して、狭苦しい中で夕食を取る。


 その晩は少ない空間を分け合って、二人寄り添って眠った。天狗の翼はふわふわとしていて、とても温かかった。


 落雷はその日を境に姿を潜めた。代わって秋風が涼やかに吹くようになり、木々の葉が赤に黄色に彩りを誇るようになる頃には、きぬの戸籍の問題は解決し、その初冬には、晴れて奄天堂きぬとなったのであった。


Ψ


「義姉さん?」


 宗克むねかつに呼びかけられて、きぬは現実に引き戻される。何度か瞬きをする。眼前にあるのは長月の嵐でも、霜月に見た終わり際の紅葉でもなく、青々と茂る水無月の柿の葉だった。


「えっと、何だっけ」

「何だっけって……」


 束の間頭が回らずに言ってしまうと、宗克はあからさまに怪訝そうな顔をした。眼鏡の鏡玉レンズの下で、黒い瞳が困惑気にしている。


「あ、そうそう雷だよね。どうして嫌いなのか、って」


 一拍遅れて思考が追い付き、きぬは取り繕う。


「雷はね、急に光るでしょう。それと音も大きいし、好きな人なんてほとんどいないと思うの」

「そりゃそうでしょうけど」


 深く考え込んでいたきぬの口から飛び出した、何の捻りもない回答。腑に落ちない様子の宗克の後ろから、のそりと義真がやって来る。


「何をしている」


 同居を始めて二か月ほど経っているが、この兄弟の間には未だよそよそしい風が吹く。宗克は、兄の影にやや身構えたらしい。


「何って、別に。義姉さんと話してただけ」

「何の話だ」

「何でわざわざ言わなきゃいけないんだよ」


 宗克の反応はさすがに過剰だと思えども、義真の声音が詰問するような調子に聞こえてしまうのも、きぬにはわかっていた。義真にはそのようなつもりはないと知っている身としては、無用な諍いを早々に止めたい。


「雷! 雷は嫌いだなって話してたの」


 二人の視線がぶつかる辺りの空中で、手を大きく振りつつきぬが言うと、義真は袖の下で腕を組んで納得したように頷く。


「きぬはずっと雷が嫌いだからな。大きい音が嫌なんだろう。花火とか」


 意図せず、雷嫌いの答えがもたらされ、脳内の霧が晴れた気分である。きぬは思わず左手のひらを右の拳で打って呟いた。


「あ、そうかも」


 その何とも締まらない様子に、宗克は一つ肩を竦めて濡れ縁に座った。空は薄暗くなり、微かに湿った匂いが漂うものの、まだ雨は降らない。本格的に降られる前に縁側でお茶でもしようか。


「お煎餅食べる人?」


 きぬは勢いよく立ち上がって、兄弟に訊く。彼らは同じような高さに眉を上げてから、ほとんど同時に「はい」と言った。意図せず声が重なり、気まずそうに視線を合わせた二人を見て、きぬは声を抑えて笑う。


 山での静謐せいひつな暮らしも幸せだったけれど、家族が増えてほんの少しだけ賑やかになったこの家も、とても居心地が良い。ずっとこのまま、平穏な幸せが続いて欲しい。きぬは長火鉢の引き出しから煎餅を取り出しながら、切に願った。


第二話 終

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