第三話 秘密のあんみつ作戦
不審者、再び
「まあ、縁談が! それはおめでたいわ」
「おめでとう、澄さん」
海老茶色の袴を穿いた三人組が高い声で騒ぎ立てるので、道行く人々は何事かと視線を向ける。路面電車の停留所。やっと傾き始めた夏の太陽は、まだ地面を焼いている。遠く蜃気楼さえ見えそうな陽気で、郵便屋が汗を流して自転車を押しながら、苦行のような坂道を上っている。
「ええ、ありがとう……」
澄は、心底嬉しそうに手を握ってくれる二人の友人の調子に合わせ、声を高くしようと努力したのだが、どうしても気分は晴れなかった。表情の冴えない澄を案じ、友人らの顔は曇る。
「どうしたの」
「わかった。きっと緊張しているのね」
どうしたの、と澄の顔を覗き込んだ切れ長の目の少女が
美弥子も律も、どちらかといえば淡泊な
そうした女学生特有の文化に染まらぬ澄たちは、もちろん学校では浮いた存在である。だから、この話をした時に、二人から返って来たある種乙女な反応は、澄にとっては大変意外なものだった。
律が、夢見心地な表情を浮かべて、うっとりと指を組む。
「澄さんの未来の旦那様は、どんな方かしら」
「お父上の職場の方ということは、お役所の?」
「ええ。昔から私を可愛がってくれた小父様なの。御年四十半ば近いって……」
澄は嫌なことを思い出してしまい、微かに顔を顰める。いけない。なんてはしたないことを。こんな顔を母に見られたらお小言が止まらないだろう。
「まあ、歳の差婚なのね! でも四十って、お父上とさほど……」
「素敵な縁談! ……じゃないよね」
澄に縁談があったことを伝えると少女らしく喜んでいた二人だったが、この事実には、さすがに哀れむように口ごもる。これはこれで気詰まりである。澄は小さく溜息を吐いて、運動着の入った風呂敷を抱え直す。
「もう諦めているの。誰が相手でも一緒よ。姉様は銀行の髪が薄いおじさんに嫁いだし、兄様の許嫁は成金の娘よ。人柄は良い方だし、お父様の同僚ならまだましね。たとえお父様と同年代でも」
もはや投げやりの域に入って捲し立てた澄だったが、美弥子と律は言葉に詰まって互いに顔を見合わせている。居心地の悪い沈黙が三人を包んだが、助け舟、ならぬ助け電車が警笛を鳴らしてやって来た。律が目に見えて安堵する。美弥子は未だ困ったような表情を浮かべたままだ。
澄も普段ならば、同じ路面電車に乗って帰るのだが。この空気がもうしばらく続くのだとすれば、なんとも気まずい。今日は別行動としよう。澄は、美弥子と律が車内に入ったのを見届けてから、停留所の屋根の下に残り、車掌に「乗りません」と合図を送った。動き出した車内に澄がいないと気づいた美弥子が、慌てて顔を出す。
「澄さん!?」
「ごめんなさい、用事思い出しちゃった。また明日ね」
「え、ちょっと」
「元気出してよ。あ、そうだこれ」
律が車窓から四角い物を放り投げた。澄は慌てて駆けて空中で受け止める。遠ざかる路面電車から、
「『黎明』。最新号だよ。先に読ませてあげるから、元気になりな……あ……」
律の声が尾を引くように遠ざかる。車窓から身を乗り出していた律は、危険だから戻れと引っ張られたのだろうか。
呆気に取られていた澄は正気に戻り、腕の中の四角に目を落とす。『月刊黎明』大衆娯楽雑誌である。
澄の家はたいして裕福ではないし、由緒ある家柄でもないのだけれど、妙に気取った空気があり、大衆雑誌の類は購読していない。だから澄はいつも、最新号が出る度に律から借りていたのだった。
もちろん、学校に持って行くなど、教師にばれたら大目玉をくらう。それでなくとも、女子には書物など不要、との気風が残る時代。澄の通う高等女学校は比較的先進的なので異なるが、学校によっては読書……特に小説の
澄は、車窓から『黎明』を投げて寄越した律の奔放な姿を思い起こし、小さく笑う。思わず声が漏れてしまい、すれ違いざまにご婦人が怪訝そうな一瞥を寄越した。唇を軽く噛んで笑みを押し殺す。
母や女中の目がある家では『黎明』は読めない。澄は適当な河原にでも行こうと踵を返して、ふと人波の中に異質なものを見つけた。視線が釘付けになる。周囲の人々も、ちらりとその姿に目を向けているようだ。
周囲より頭半分ほどは身長が高く、袴を穿いた和装なのだが帽子を被っている。帽子の厚みが、より一層その人物の背丈を大きく見せている。いや、何よりも目を引くのは、肩から伸びる双翼。彼は天狗である。この町ではかなり珍しい。
「
思わず呟いたところ、これもまた意図せず反応する小柄な影があり、今度はそちらに視線を遣る。眼鏡の書生が一人、怪しげな忍び足で人込みに紛れるように、澄の横を通り過ぎるところだった。
「あれ、あなた」
忍び足の青年は、澄に認識されたことに気づくと、肩を一度震わせて俯きがちに歩き去ろうとする。澄は、彼が此度もあまりにも不審者然としていたので、思わずその腕を掴んで引き留めた。
「待って! なんだっけ……不審者!」
名前を忘れてしまったので、咄嗟に出たのは何とも酷い呼びかけだった。澄に確保された書生、もとい宗克は、渋々顔を上げて、今にも舌打ちでもしそうな視線を寄越した。
「……面倒な奴と鉢合わせた」
それはこちらの台詞である。
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