天狗を尾行

 この人はどうしてこう、いつも不審な動きをしているのだろうか。


 本日は、汗ばむほどの陽気である。さすがに、初めて彼を目撃した時に被っていた分厚くて黒い羽織は見当たらない。けれども小柄な頭に大きな帽子を目深に被り、澄に気づきながらも俯きがちに黙ってやり過ごそうとしたその行動は、この上なく不審である。一呼吸おいてやっと青年の名前を思い出し、澄は呼びかけた。


宗克むねかつさん? 何やっているんですか、こそこそと」


 宗克は眼鏡の奥から、心底面倒臭そうな眼差しをこちらに向ける。何とも失礼な目である。


「どうも、澄さん。街歩きだよ。ちょっと急いでるんだ」


 若干視線が彷徨う挙動不審に気づけば、いっそういぶかしい。彼の腕を掴んだ手に、知れず力が籠った。


「急いでいるなら、堂々と歩いたほうが速いじゃないですか」

「助言ありがとう。ほら、往来の邪魔になる」


 言われて周囲に視線を巡らせる。すれ違い様の人々の視線が突き刺さる。何事だろうかと怪訝な顔でこちらを振り返る姿に、澄は束の間、己の行動を恥じた。


 海老茶袴の女学生が、嫌がる書生の腕を強引に掴み何事かを言い募る様は、人々の想像を掻き立てるには十分すぎる光景だ。知り合いにでも見られてしまえば、大変面倒なことになるだろう。


 澄としては、もうそろそろ手を離してやろうとしたのだが、気が急いている宗克はその間すら惜しい様子。やや勢いが削がれた澄の腕を逆に引いて、通りを横断し始める。


「歩きながら話そう。ああ、くそ。見失ったじゃないか」

「見失ったって、誰を?」

「兄貴」

「どうしてまた、お兄さんを追いかける必要が?」


 こんな街中で尾行をするまでもなく、家で待っていれば帰って来るのではないだろうか。自分の顔はあいにく見えないのだが、解せぬ、という表情だったのだろう。宗克はこちらを一瞥してから、足早に進む。自転車に乗った青年とすれ違った拍子に、一陣の風が澄の髪を巻き上げた。


「あいつ、最近行動が怪しいんだ」


 あいつ、とはもちろん尾行対象となった天狗だろう。澄は眉根を寄せる。不審人物の口から、人を怪しむ言葉が発せられるだなんて。ともすれば、「怪しいのはあなたでは」と遠慮のない言葉が飛び出しかけたのだが、続く宗克の発言を耳にし、滑り出たのは無意味な復唱だった。


「不倫しているんじゃないかと思うんだ」

「不倫?」


 宗克は、兄の姿を人混みの中に探しながら頷く。


「最近帰りが遅いし、ほとんど講義も入っていないくせに、一人でよく出かけているんだ。義姉さんはあの性格だから表立って問い詰めることはしないし、俺が真実を突き止めないと」


 おや、と澄は宗克の横顔を眺める。彼は最初、きぬに突っかかっていた記憶があるのだが。いつの間に義姉を思いやる心を手に入れたのだろうか。澄の様子から心中を察したらしい宗克は、言い訳のように呟いた。


「義姉さんは、いい人だから。……ほら、事情はわかっただろ。そろそろ手を離してくれる」

「あ、ごめんなさい」


 慌てて手を離し、そのまま惰性で宗克の横を進む。宗克の兄、奄天堂義真えんてんどうぎしんとは言葉を交わしたことはほとんどない。


 彼の妻であるきぬが澄と仲良くしてくれるため、何度かお宅で顔を合わせたことがある程度だ。寡黙な義真は、挨拶をする澄に頷くような会釈をするだけで、いつも早々に書斎に引っ込んでしまう。毎度ごめんね、ときぬは謝るけれど、特別悪い印象は抱かなかった。


 その人となりを深く知らぬとはいえ、彼が外で愛人を作るようなたちだろうかと考えを巡らせれば、疑問が浮かぶ。


 この近辺では、天狗は珍しい。澄は、天狗の鼻が大して長くはなく、顔色も赤くなどなく、人間とそう変わらない姿であると、身近なこととして知ってはいた。けれども実際に、純粋な血筋の天狗と顔を合わせたのは義真が初めてであった。


 この街では、義真は物珍しさから人々の注目を集めるとはいえ、異性に向けられるたぐいの艶めいた視線など、浴びようもないのではと思えた。


 そうでなくとも、義真の寡黙さを思えば、女性を口説くことなど、できる気がしない。奄天堂夫妻は恋愛結婚だと聞いている。一体どうやってきぬと結ばれたのだろうかと、いつか馴れ初めを訊ねてみたい程だった。

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