兎の飴細工

Ψ

 

 千賀の手料理を頬張り、風呂を借りて就寝の準備をする頃。豪雨が木々や屋根を打つ不規則な音が、室内に響く。炊事場の方で雨漏りをしているらしく、千賀は悪態を吐きながら、欠けた茶碗を雨粒が滴下てきかする辺りに配置した。徐々に水位が上がり、やがて水滴が水面を打つ音が、雨の日の音楽に変奏をもたらす。


 千賀はいつも通り饒舌で、あれやこれやときぬに語りかける。時折話を振られる俊慶は、始終微笑みを絶やさず鷹揚に頷いていた。


「ところできぬは、どうして昔を思い出したくないんだい」


 不意を突かれて言葉に詰まるが、きぬは思いのままに答えた。


「今の生活が、とても好きなんです。何も変わりたくなくて」

「でもそれって、今の記憶しかないからそう思うんだろう。もしかして、全部思い出したら帰りたくなるかも知れないじゃないか」

「そんなこと」


 あるはずない。そう確信しているのだが、言い切れる根拠がないのも理解している。きぬは素直に呟いた。


「その時になってみないと、分からないですよね」

「そうだよ。一度前向きに考えてみたらどうだい。記憶を取り戻して、その時改めて考えてもここにいたいと思うのなら、そうすればいい。あたしが言うことじゃないけど、義真もきっとそう思っているさ」

「義真さんは早く私を追い出したいのかも」

「そんなこと言ったらあの子がかわいそうだ。ここ数か月、嫌な顔せず一緒にいただろう。義真を信じてあげな」


 千賀と話していると、心のもやが徐々に晴れていくのを感じる。彼女の言う通りだ。少し気を抜けば、全てのことを後ろ向きさに捉えてしまう自分の性格に、嫌気が差す。その嫌悪すらも悲観的で、底なし沼にはまったかのように気分が落ちていく。薄明りの中とはいえ、目に見えて沈んだきぬの表情に気づいた千賀が、景気づけのつもりか、きぬの背中を叩いた。


「ほら、そんな顔しない」


 老婆とは思えぬ力強さに、背中がやや痛む。それでもきぬは微笑みを浮かべようとしたのだが、心意気は突如として轟いた落雷の爆音により削がれてしまった。


 思わず声を上げ、耳を塞ぐ。この近辺に落ちたのだろうか。雷鳴はかなりの音量だった。


「やだね、最近天気が不安定で」


 千賀が舌打ち交じりに言ったのとほとんど同時に、「おや」と俊慶が呟いた。その意図はほどなくして知れる。建付けが悪くなってしまっている扉の隙間から、朱色の灯りが覗いた。まさか落雷で火事か、と思ったが杞憂である。慌ただしく板戸を叩く音がした直後、住人の許可を待たずにそれは開かれる。


「小母さん!」


 飛び込んできた声は聞き慣れたものだったのに、その予想外に動揺した声音に、きぬは目を丸くした。一方、飛び込んできた客人の方も、同様に眉を上げた。


「あれ、義真」


 千賀が呟いたが、彼女の方は一瞥もせず、義真の瞳は真っすぐにきぬを捉えていた。口元を険しく引き結んだ表情で、彼はずぶ濡れのまま無遠慮に上がり込む。


「あ、ちょっと! びしょびしょになる」


 千賀の制止も空しく、彼は雷雨に濡れた足跡を残し、大股でやって来る。きぬの隣に膝を突いた義真。躊躇いなく伸ばされた腕に、力強く引き寄せられる。


 戸惑いに声が出ないきぬの耳朶を、いてやって来たのだろう義真の、荒い呼気が撫でる。痛いほどの力で抱きすくめられたので、薄い寝衣に雨水が移り、ひんやりと肌を冷やした。


「あの」

「無事か、怪我はないか」


 何の脈絡もない問いかけだったが、きぬは微かに頷く。腕の中に首肯の気配を察した義真は、小さく息を吐いて身体を離した。射干玉ぬばたまの瞳が揺れている。ほんの少しだけ潤んでいるように見えたのは、光の加減だろうか。


「義真さん、急にどうしたんです」


 義真はきぬの顔をたっぷり三秒ほど見つめた後、肩の力を抜いた。


「家に、空き巣が入ったようだ。きぬがいなかったから、てっきり……」

「空き巣! ごめ」


 きぬが不用心にも家を留守にしたからいけないのだ。謝罪しようとした口は、再度抱き寄せられて肋骨にぶつかり、「ふぐ」という情けない呻きだけが漏れた。義真の腕は、柄にもなく微かに震えていた。


「良かった。家にいなくて、本当に良かった」


 きぬの罪悪感を、意図せずとも溶かすような安堵の囁きに困惑する。きぬの腕は所在なく畳に垂れる。ちょうど、先日の義真と同じように。やがて、きぬは腕を持ち上げて、義真の背中を躊躇いがちに撫でた。


「私は大丈夫です。……義真さん、お帰りなさい」


 その言葉を耳にしてやっと、彼は落ち着きを取り戻したようだった。改めて腕を解いた時には、義真はいつもの静かな表情に戻っていた。彼はおもむろに口を開く。


「ずっと考えていた。きぬが俺たちを受け入れるのは、記憶が抜け落ちているからだろうと」


 義真はきぬを真っすぐ見つめたまま言う。不意の言葉に、きぬは口を閉ざして耳を傾ける。


「卵からかえった雛は、最初に目にしたものを親だと思うだろう。そういうことだと思っていた。いや、今でもそう思う」


 義真は人知れず拳を握った。


「一人街へ下りて考えた。俺はどうしたかったのかと。きぬを縛り付けるつもりはない。人の世界に帰りたいと思うことがあれば、その時は自由にしてほしい。だが今は、きぬを繋ぎとめたい。それが俺の身勝手だとしても」


 義真は懐から棒状の何かを取り出して、きぬの手に不器用に押し付ける。視線を落とし、棒の先端部に半ば貼りついた油紙を捲り、きぬは呟いた。


「飴細工」


 白い兎だった。耳と目が食紅で赤く塗られ、体温で緩くなったのか、長い耳がややいびつよじれている。先日の屋台で、きぬが興味を持っていたのを、覚えてくれていたのだろうか。


「くれるんですか」


 義真は小さく頷く。それから、真摯な瞳でこちらを射抜いた。


「帰りたくなるまでは、一緒にいてくれ。夫婦めおとになろう」


 突然の提案に思考が停止し、飴細工を取り落としてしまい、慌てて拾い上げる。畳が一層汚れたと、千賀が唸ったが耳には入らない。


 彼の目が、「どうだ」と問うている。いつもの通りの眼差しに、きぬは頬を緩めた。胸に込み上げるものを堪えながら、辛うじて答えた。


「……はい。私でよければ」


 義真の身体の強張りが、微かに抜けたのが分かった。きぬは今度は自分から彼の胸に飛び込もうとして、今更ながら家を汚された千賀の冷たい視線と、対照的に生暖かい俊慶の眼差しに気づき、頬に血が昇るのを感じた。


「ご、ごめんなさい」

「いや、きぬは悪くない。義真、何でもいいから着替えて足跡自分で拭いてきな」


 ぴしゃりと背中を叩かれ、義真の翼が衝撃で揺れる。彼は微かに顔を顰めたが、分が悪い。素直に腰を上げて、千賀から水を拭う布を受け取り、俊慶から着替えを借りた。


「まったく、あんなに喋れるなら普段からそうしてくれりゃあいいのに」


 千賀は毒を吐くが、悪くは思っていないようだった。彼女は恐縮するきぬに一言囁いた。


「ほら、あたしの言った通りだろ」


 きぬは小さく頷いた。雷鳴はまだ腹に響く低音を立てていたのだが、不思議と恐怖心は収まりつつあった。

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