老天狗への相談ごと
客間、というものがない小さな家である。老夫婦が終日を過ごす茶の間にて、きぬは薄い座布団の上に脚を折って座した。
「おお、きぬ。もう体調は大丈夫なのかい」
「はい、もう大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ございません」
「良いんだよ、元気になったならよかった。うん、よかった」
何度か頷いて俊慶が目を細めるのを見遣ってから、千賀が対照的なまでの勢いで口を開く。
「無理し過ぎたらいけないよ。あんたはちょっと頑張りすぎるところがあるから」
「そうでしょうか?」
「やだね、こういうのは本人が一番気づかないんだ。本当なら義真が気を利かせるべきなんだろうけど、あの通りの甲斐性なしだから……」
そこまで言って、千賀は違和感を覚えたようで首を傾ける。
「あれ、義真は?」
「それが」
きぬは束の間言葉に詰まってから、千賀の表情を覗いた。
「帰って来ないんです。五日前、こちらにお邪魔しませんでしたか?」
「ああ、来たけど……まさかあの子、きぬに何も言わずに行ったのかい」
「どこへ行ったかご存じなんです?」
「ああ、街に……」
途端に歯切れが悪くなる。普段は
「街に行ったけど、多分そろそろ帰って来るよ」
「街には何をしに行ったんでしょう」
「ともかく、もう帰るだろう。きっと雨が続いたからどこかで足止めを食らっているんだろうさ」
「じゃあ、どこかへお引越ししたとか、そういうことではないんですね」
「なんで住んでた家をそのままにして引っ越すんだい」
確かにその通り。引っ越すにしても家財道具一式を放置して、着の身着のまま出奔して帰らないことなど考えづらい。また、千賀の話振りからすれば、どこかで野垂れ死んでいるようなこともないだろう。張りつめていた不安が解けると、身体の力が抜ける。ふらりと畳に手を突いたきぬに、千賀が狼狽する。
「ど、どうした」
きぬは俯きながら、呟いた。
「よかった……」
続く言葉はない。安堵の涙が零れ落ちそうになり、唇を噛む。この際、義真がきぬに委細告げずに出かけたことなど、取るに足らない過ちであるように感じられた。
きぬの様子に何か思うところがあったのだろう。不意に千賀の乾いた手が、きぬの頬を撫でる。顔を上げれば、眼前に黒々とした瞳がある。
「何かあったのかい?」
親身な様子で囁かれ、堪えきれずに涙腺が崩壊するのが分かった。きぬは幼子のように顔を歪め、千賀の胸に縋りついた。
「千賀さん、私、とんでもないことを……!」
天狗老女の胸の中にいるため表情は見えないのだが、千賀は目を白黒させたことだろう。対して、この時の俊慶は一寸の動揺も見せず、常の通りの穏やかな様子で湯呑を傾けていた。
Ψ
義真と別れる前の晩のことを告げると、千賀は最初こそ反応に困った様子を見せたが、やはり年の功か、即座に落ち着きを取り戻した。
きぬは一気に捲し立てるうちに止まった涙を指先で拭い、鼻を啜る。千賀の顔を見上げて、己の子供のような振舞いに今更ながら赤面をした。
「私、まずいことしました、よね」
千賀は珍しく言葉を選ぶような仕草をして、白い物が混じる頭を掻く。
「まずい、というか……。まあ、義真にとってはその辺りのことは繊細な問題なんだろうよ。ほら、智絵さんも人間だったし、いろいろ思うところがあるんだろう。それにしても、あんた意外と大胆だねえ」
きぬは身体を縮める。きぬも、あれがいかにはしたなく、配慮に欠けた行動だったかは理解している。智絵との関係は詳細には知らぬが、彼女の着物を着て、彼女と二人過ごしただろう小屋の中で、あのような行動。義真を不快にさせたことだろう。
「それより戸籍、ねえ。ふうん」
「私に配慮してくれたんです。きっと」
「あの子にそんな配慮ができるもんかね。まあとりあえず、義真が帰って来るまで待ちなさいな。今日は家に泊まってもいいし、帰るってなら途中まで送って」
その言葉に被せるように、不意にぴしゃりと扉が閉まる音がして振り返る。いつの間に移動したのか、玄関の辺りで、俊慶が穏やかな様子で言った。
「雨が降りそうだねえ」
「なんだ、驚いたじゃないのさ」
千賀は鋭い視線を夫に向け、心臓に手を当てて言ってから、きぬに向きなおる。
「雨だってさ。今日はもう泊まって行きな」
きぬは、ありがたくその申し出に甘えさせてもらうことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます