老天狗への相談ごと

 客間、というものがない小さな家である。老夫婦が終日を過ごす茶の間にて、きぬは薄い座布団の上に脚を折って座した。


「おお、きぬ。もう体調は大丈夫なのかい」


 俊慶しゅんけいがのんびりとした口調で気にかけてくれる。きぬは老天狗に膝を向けて頭を垂れた。


「はい、もう大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ございません」

「良いんだよ、元気になったならよかった。うん、よかった」


 何度か頷いて俊慶が目を細めるのを見遣ってから、千賀が対照的なまでの勢いで口を開く。


「無理し過ぎたらいけないよ。あんたはちょっと頑張りすぎるところがあるから」

「そうでしょうか?」

「やだね、こういうのは本人が一番気づかないんだ。本当なら義真が気を利かせるべきなんだろうけど、あの通りの甲斐性なしだから……」


 そこまで言って、千賀は違和感を覚えたようで首を傾ける。


「あれ、義真は?」

「それが」


 きぬは束の間言葉に詰まってから、千賀の表情を覗いた。


「帰って来ないんです。五日前、こちらにお邪魔しませんでしたか?」

「ああ、来たけど……まさかあの子、きぬに何も言わずに行ったのかい」

「どこへ行ったかご存じなんです?」

「ああ、街に……」 


 途端に歯切れが悪くなる。普段は啄木鳥きつつきのような勢いで話すのに、決まり悪くなると千賀の言葉尻はすぼむのである。きぬは黙って続きを促した。千賀は視線を受けて、小さく嘆息する。


「街に行ったけど、多分そろそろ帰って来るよ」

「街には何をしに行ったんでしょう」


 人気ひとけのない場所で静かに過ごすことを好む義真が街に下りるのは、どうしても必要な用事がある時だけだった。縹色はなだいろの風呂敷は持っていなかったので、出版社に行ったという訳でもないだろう。怪訝に思ったきぬの問いかけに、千賀は曖昧に首を振っただけだった。


「ともかく、もう帰るだろう。きっと雨が続いたからどこかで足止めを食らっているんだろうさ」

「じゃあ、どこかへお引越ししたとか、そういうことではないんですね」

「なんで住んでた家をそのままにして引っ越すんだい」


 確かにその通り。引っ越すにしても家財道具一式を放置して、着の身着のまま出奔して帰らないことなど考えづらい。また、千賀の話振りからすれば、どこかで野垂れ死んでいるようなこともないだろう。張りつめていた不安が解けると、身体の力が抜ける。ふらりと畳に手を突いたきぬに、千賀が狼狽する。


「ど、どうした」


 きぬは俯きながら、呟いた。


「よかった……」


 続く言葉はない。安堵の涙が零れ落ちそうになり、唇を噛む。この際、義真がきぬに委細告げずに出かけたことなど、取るに足らない過ちであるように感じられた。


 きぬの様子に何か思うところがあったのだろう。不意に千賀の乾いた手が、きぬの頬を撫でる。顔を上げれば、眼前に黒々とした瞳がある。


「何かあったのかい?」


 親身な様子で囁かれ、堪えきれずに涙腺が崩壊するのが分かった。きぬは幼子のように顔を歪め、千賀の胸に縋りついた。


「千賀さん、私、とんでもないことを……!」


 天狗老女の胸の中にいるため表情は見えないのだが、千賀は目を白黒させたことだろう。対して、この時の俊慶は一寸の動揺も見せず、常の通りの穏やかな様子で湯呑を傾けていた。


Ψ

 

 義真と別れる前の晩のことを告げると、千賀は最初こそ反応に困った様子を見せたが、やはり年の功か、即座に落ち着きを取り戻した。


 きぬは一気に捲し立てるうちに止まった涙を指先で拭い、鼻を啜る。千賀の顔を見上げて、己の子供のような振舞いに今更ながら赤面をした。


「私、まずいことしました、よね」


 千賀は珍しく言葉を選ぶような仕草をして、白い物が混じる頭を掻く。


「まずい、というか……。まあ、義真にとってはその辺りのことは繊細な問題なんだろうよ。ほら、智絵さんも人間だったし、いろいろ思うところがあるんだろう。それにしても、あんた意外と大胆だねえ」


 きぬは身体を縮める。きぬも、あれがいかにはしたなく、配慮に欠けた行動だったかは理解している。智絵との関係は詳細には知らぬが、彼女の着物を着て、彼女と二人過ごしただろう小屋の中で、あのような行動。義真を不快にさせたことだろう。


「それより戸籍、ねえ。ふうん」

「私に配慮してくれたんです。きっと」

「あの子にそんな配慮ができるもんかね。まあとりあえず、義真が帰って来るまで待ちなさいな。今日は家に泊まってもいいし、帰るってなら途中まで送って」


 その言葉に被せるように、不意にぴしゃりと扉が閉まる音がして振り返る。いつの間に移動したのか、玄関の辺りで、俊慶が穏やかな様子で言った。


「雨が降りそうだねえ」

「なんだ、驚いたじゃないのさ」


 千賀は鋭い視線を夫に向け、心臓に手を当てて言ってから、きぬに向きなおる。


「雨だってさ。今日はもう泊まって行きな」


 きぬは、ありがたくその申し出に甘えさせてもらうことにした。

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