長いお留守番

Ψ


 その日は湿度が高く、じめじめとした大変な猛暑であった。


 少し隣山に行くだけだと思っていた義真は昼食時になっても戻って来ない。いつもは腹を空かせた小鳥のように、食事の香りに誘われてふらりと戻って来るのだが、この日は千賀の家で御馳走になったのだろうか。


 一人で腹を満たし、余りを夜に回す。なんとなしに出かけて行ったような様子だったのだから、さすがに夜には戻るだろう。そんなきぬの楽観を打ち砕くかのように、夕刻に遠雷が轟いた。山の天気はただでさえ変わりやすい。それにこの酷暑。大気中の水蒸気が日中に上空へと移動し、積乱雲の中で雷鳴が響くのだ。


 遠くで低く唸る空に、きぬは身震いする。雷は嫌いだ。昨日の今日で思えば、この腹に響く重低音は、どこか花火に似ている気がする。


 空を走る稲光と、色とりどりの人工の火花。どこかの高木を真っ二つにしたような落雷の音も、天を裂く花火の破裂音も、きぬにとっては大差ないものだった。花火好きの人に聞かれたら、怒られてしまうかもしれないが。


 空からの不穏な音に耳を塞ぐことしばし。やがて、不意に湿った土の匂いが鼻を突き、ひんやりとした冷気の舌が腕を撫でたと思った途端、大粒の雨が山肌に打ち付ける音が響いた。


 夏の夕刻の驟雨しゅううには辟易する。幸い、洗濯物は取り込んであったので、それらを救出するために慌てて雨の中に出る必要はなかった。


 きっと、山道は傾斜を流れる雨のために、激流の川のようになっているだろう。これでは義真は帰って来れないかもしれない。足場が悪い中、無理に帰ろうとすれば、怪我をしてしまうかも。


 案の定、夜が更けても義真の姿は戻らなかった。今晩は千賀の家に泊まっているのだろうか。きぬは微かな胸騒ぎを覚えながらも、二人分の夕餉を完食し、一人眠りについた。


 翌朝目覚めても、雨は止む気配がない。まだ秋の足音遠い時期のはずなのに、少しおもてに出てみれば、肌を刺す冷気に、移ろいゆく季節を感じた。もうしばらくすれば、この山で義真と出会って半年が過ぎる頃だろう。


 雨音だけを背景音楽に、きぬはぼんやりと掃除をする。いつもは義真の指先が紙を擦る音や、天狗の翼の身じろぎの音を聞いていた。


 それらはとても静かで、あってもなくても気にならぬものだと思っていた。しかしこの部屋に一人きりになれば、それがいかに心地良い音だったのか、思い知らされる。雨が止まないからか、この日も彼は帰らない。


 木々の間から雨雲の切れ間を見たのは、義真が家を出てから四日経った頃だった。太陽の笑顔が戻れば、ぐんと気温が上がる。昨日までの秋の気配はどこへやら。真夏の熱気が戻っていた。 


 さすがにそろそろ戻るだろうと思っていたのだが、この日も義真の姿はなく、不安になったきぬは翌日山を下りた。


 途中、黒々とした茂みや天狗ほどに大きな肌色の倒木を見つける度、義真が倒れているのかと肝を冷やす。恐々足先で突いてみて、それが生き物ではないと確認しては、安堵の息を吐いた。


 向かったのは、千賀らの住む山である。彼らに訊けば、義真の行き先を追うことができるのではないかと思ったのだ。


 天狗老夫婦の小屋は、義真のそれよりも更に小さい。彼らが若い時分より暮らし、年季の入った茅葺屋根である。


 修復といえば、時折義真が雨漏りを直してやるくらいで、老朽化した家屋は旋風つむじかぜでも起きれば取返しの付かない損傷を負ってしまいそうなほど、頼りない。それでも室内は清潔に保たれていて、居心地はとても良いのである。天狗というのは、もちろん個人差があるとはいえ、一般的にはかなり几帳面な人種だ。


「すみません、いらっしゃいますか」


 板戸を叩き、声を張る。ほどなくして、いつも通り片足を引きずるような音がして、扉が開かれた。


「きぬじゃないか。こんなところまでどうしたんだい」

「おはようございます、千賀さん。その……この前は途中で帰ってしまってすみませんでした」

「気にする必要ないよ。ほら、早く入りな」


 千賀はあっけらかんと言い、身体をずらしてきぬを室内に招き入れた。

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