言い訳とお出かけ

 しばらく膠着こうちゃくしていたが、石にでもなったかというほど反応がないので、仕方なくきぬは身体を離し、義真の瞳を覗き込んだ。黒々としたそれは、きぬの姿を映すと小さく揺れる。束の間見つめ合ってからやっと、義真はやんわりときぬの肩を押して身体を離す。


「俺は、きぬが思っているような天狗ではない」


 短く言って彼は視線を逸らす。それから箱膳を引き寄せ、粥の椀が空になっていることを目視して、それを抱えて腰を上げた。片付けに行くようだ。


「義真さん」

「妻にはできない」


 彼は背中越しにはっきりと言った。明確な拒絶にきぬが息を吞むのが分かったのか、彼は背を向けたまま、取り繕う様に付け足した。


「……戸籍が、ないだろう」


 内縁の妻、というのも珍しくはない。戸籍云々というのは、ただの口実で、結局のところきぬは義真に拒絶されたのだ。


 このような、はしたない真似をしてしまったことへの羞恥と後悔、何より義真を困惑させてしまったことへの罪悪感に、きぬは唇を噛んで込み上げるものを堪えた。


 そのまま改めて布団に包まり、炊事場で椀が擦れる音を聞きながら、固く目を閉じる。後悔せども、もう取り消すことはできない。


 しばらくして、義真が様子を窺いに来た気配がしたが、きぬは眠った振りをしてやり過ごす。彼は何も言わず、自分の寝床に入ったようだった。


 そのまま夜が更けるまで、きぬは眠れずに過ごした。


Ψ


 寝不足の目を擦って起床し、いつも通りに朝食を用意する。こんがり焦げた鮎の塩焼きに、山菜が大胆に浮かぶ味噌汁、白い湯気を上げる炊き立ての米、それに浅めに漬かったきゅうりの糠漬け。昨晩のことなどなかったかのようにいつも通りの朝の風景。義真も顔色一つ変えない。


 椀の中身は、ほどなくして空っぽになる。昔のことは覚えていないけれど、きぬの人生で食事が喉を通らなくなったことなど、一度もないに違いない。その証拠に、たった今朝食を終えたばかりなのに、今日の昼食は何にしようか、などと考え始めた。我が事ながら呆れる思いだ。


「きぬ」


 食器を洗っていたきぬは、呼びかけられて、手を止める。いつからそこにいたのだろうか。物音すらしなかったのだが、義真が玄関口に立ち、こちらに視線を向けていた。出版社に行く際に抱えている縹色はなだいろの荷物はない。遠出をする様子ではなかった。きぬは首を傾ける。


「お出かけですか?」

「ああ、小母おばさんのところに」


 昨日は千賀と俊慶への挨拶もほとんどできず、家に帰って来てしまった。彼らには、きぬの体調不良とだけ告げてある。きっと心配しているだろう。


「それなら私も」

「いいや。飛んでいく」


 滑空して隣の山まで行くということか。確かに山を下りてもう一度勾配を上るよりも桁違いに早く目的地に着くだろう。それでもこれまでは幾度も、二人並び地面を歩いて千賀の家に行ったものだなのだが。全て忘れたような顔をしてはいるがやはり、きぬと過ごすのが気詰まりなのだろうか。


 少しだけ寂しさを感じたのも真実だが、かくいうきぬも、未だ気持ちの整理がつかぬ身。ほんの僅かな時間ではあるだろうが、距離を置くことができると思えば案外、気が楽になる。だから引き留めることもなく、素直に送り出した。


「気を付けて行ってらっしゃい。千賀さんと俊慶さんによろしくお伝えしてくださいね」


 義真は「ああ」と頷いて、夏の陽射しの中に滑り出る。その翼が灼熱の陽光に照らされて煌めくのを、目を細めて見送った。


 その時は思いもよらなかった。以降、しばらく義真の姿を見ることはないなどとは。

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