ここにいるために

 どうやって家に帰ったのか、ほとんど記憶にない。ただ、山道はとても暗かったはずで、本来ならば人間であるきぬが、夜目の利かぬ天狗である義真を先導するべきだったのに、助けになるどころかお荷物のように手を引かれて家まで連れて帰ってもらったということだけは確かだった。


 提灯ちょうちんで注意深く足元を照らし、下草を掻き分け、時折木の根につまずきながら、やっとのことで小屋の扉を開く。義真の家の匂いが鼻先を撫ると、安堵から脚の力が抜けていったほどだ。


 山を登るうち、きぬの動揺は薄れ、涙は止まり、代わりに言い知れぬ羞恥心が全身を支配した。それと同時に、義真へ八つ当たりをしてしまったことに対する激しい後悔が湧き起こる。


 ここしばらく彼は、きぬの過去の記憶を呼び覚まそうとしていた。今日だってきっと、花火に怯えるきぬを見て、掴んだ手がかりを離すまいとしている。


 過去のことなんて、思い出したいとは思わない。ずっとこのまま、この山で義真や千賀せんが俊慶しゅんけいと、慎まやかに暮らしたい。だが記憶が蘇れば、きぬはきっと、人間の世界に帰らなければならない。義真はそれを望んでいる。そのことに憤りはするけれど、彼には何の罪もない。全てきぬの独りよがりだ。


 きぬは帰宅するなり布団にくるまり、拗ねた子供のように蓑虫になっていた。義真はそんなきぬをどう扱うか、しばし思案してから、やがて考えることを放棄したのか、やや離れた玄関際に歩いていく足音が耳に届いた。きぬは布団をさらにきつく手繰り寄せた。


 恐怖の正体は、分からない。身体がひとりでに小刻みに振動するあの感覚は、とても不快だ。花火の音も、疎ましい。……そう、花火。


 誰もが空を見上げて目を輝かせていた。手を叩き、感嘆の声を上げて、儚い光よ消えるなと、その名残に手を伸ばした。


 それなのにきぬは、あれを美しいとは思えなかった。なぜだろう。心が醜いのだろうか。そうかもしれない。ただの厄介な居候を受け入れてくれる彼を困惑させてしまっても、謝罪の言葉すら述べることができないのだから。


「花火に、嫌な思い出でもあるのか」


 不意に近く聞こえた声に、きぬは反応に窮する。例のごとく、きぬの回答があるまで彼は黙り、身じろぎ一つしない。しばらく布団の蓑の中でだんまりを決め込んでいたのだが、困惑気に名前を呼ばれて、根負けした。きぬは布団の端から目から上だけ覗かせて答えた。


「わかりません」


 薄明りの中、義真の表情は読めない。この山には電気は通っていないので、明かりは石油洋燈ランプの頼りない灯火ともしびだけ。


 義真はいつもどおり「そうか」と呟いて、いつからそこにあったのか箱膳を、ずりずりと音を立てながら引きずった。漆塗りの艶やかな台の上、茶碗と匙が乗っている。茶碗の中には、何やら白く粘性のもの。きぬは思わず自責の念に満たされた心を忘れ、眼前のどろどろを凝視した。


「なにこれ」


 不満を漏らす意図はなく、純粋な疑問であった。義真の顔を見上げれば、彼は当然のように答えた。


「粥」

「かゆ……」


 もう一度どろどろを見下ろす。かゆ、とはお米から作るあの粥か。確かに白米の白が面影を残している。改めて義真に視線を遣れば、彼は頷いた。どうぞお食べ、と言う様子。きぬは恐々と匙でそれを掬い、口に入れた。舌触りは完全に糊である。


 義真の射干玉ぬばたまの瞳が、こちらを見つめる。注がれる視線は少し得意げで、粥と名付けられた食用糊との落差が、頑なに閉ざされていたきぬの心を僅かに溶かす。意図せず、頬が緩む。


 義真は、いったい何の冗談かというくらい、料理が下手だった。


 此度の糊については、生米から作る時間はなかったはずなので、おひつに残されていた米に白湯さゆか何かをかけたのだろう。ここまで完璧な糊になったというのはどういう才能か。もしかしたら食べやすいようにとしてくれたのだろうか。いや、赤子の食事ではあるまいし。


 義真の料理にはいつも度肝を抜かれる。前妻亡き後、心配した千賀が時折この小屋を訪れて、食事の世話をしてくれていたのには、こういった事情があった。


 きぬの沈黙をどう思ったのだろう、義真は言い訳のように呟いた。


「きぬは、食べることが好きだろう」

「……お粥食べたら機嫌が直ると思いました?」


 彼の目が、「違うのか?」と訊いている。きぬの食欲が底なしなのは、周知の事実。否定には及ばない。それにお米に罪はない。


 きぬはもう一掬い粥を口にし、ほとんど塩気のないそれを、黙って咀嚼した。美味とは程遠いのだが、不思議と心が温まる。


 きぬをおもんぱかり、天狗には不便だろう薄明りの中、苦手な料理を振る舞ってくれる。誤解されがちな人だなとは思うけれど、その不器用さすら、愛おしく思える。けれどもきぬは、近い将来ここを離れることになるのだろう。


「私に、早く山を下りて欲しいですか?」


 言葉尻に棘が紛れてしまい、きぬは己の身勝手さに閉口する。義真は気に留めなかったようだ。


「人間は、人間の街で暮らす方がいいだろう」

「別にそんなことは」


 薄闇の中、視線が重なる。微かな光を反射して光る義真の瞳に、布団柄の蓑虫が映っているのを、きぬはぼんやりと眺めた。


「人間は、群れて生きるものだろう。群れを外れた動物は、長くは生きられない」

「お猿じゃないんですから」

「それに、世間体が悪いだろう」


 意外な発言を耳にし、言葉に詰まる。義真の口から、世間様を気にする言葉が出るとは。しかしそれは、きぬを気遣ってのことらしい。


「こんな小屋で、天狗の男と二人」

「義真さんは嫌なんですか」


 彼は困ったように首を傾ける。答えはない。


 ずっとここにいたいのはなぜだろう。朝には小鳥のさえずりに起こされて、手抜きに作った朝食でも喜んで食べてくれる人がいて。書物を捲る音に耳を傾けながら縫物をし、山に入り山菜を採って、食卓に上げる。時々日光浴をして、天狗の大きな翼が可愛らしくも上機嫌に揺れるのを眺める。静かで穏やかで、平穏な幸せの日々。


 これは一時いっときの夢なのだろうか。義真も、それで良いのだろうか。この気持ちは、全くの独りよがりで、義真はきぬを邪魔にでも思っていたのだろうか。


「私は、ここにいたいです。迷惑、ですか」


 義真はまなじりを下げる。その目は頑なで、なんとしてでもきぬの記憶を取り戻させて、人里に帰そうという気概が見て取れる。


「きっと私は、人間の世界にいられないからお山にいたんです。忘れてしまった過去だって、決して良い物なんかじゃないはず。帰りたくないんです」


 義真の反応は薄い。きっとそれは、聞いていないのでも興味がないのでもなく、ただ静かに思案しているのだ。どうやって目の前の頑固者を翻意ほんいさせようかと。


「迷惑にならないようにします。必要ならお仕事を探しに行きますし、お家のこともちゃんとします」


 捲し立てたきぬは、己の行動に歯止めが利かず戸惑った。思いの奔流は止まらなかった。ここで身を引けばきっと、どうしようもなく後悔をする。


 気づけば腕が伸びていた。天狗の背中、翼の付け根辺りに触れ、身を寄せる。温かな胸板が眼前に迫ったところで、その大胆な行動に羞恥を覚えたが、もう後には引けない。


 きぬの温もりを抱く形になった義真は、少しだけ身体を引いたが、拒否するでもなく受け入れるでもなく、彼の腕は畳の上に所在なさげに垂れている。


「ここにいるのに理由が必要なら、妻にしてください」


 反応はない。遠くでふくろうが鳴く声がした。木々が風に揺れ、さやさやと音を立てる。屋根裏で鼠が走るような微かな音ですら、きぬの耳に届く。その中で、己の鼓動の音だけがやけに大きく響いた。


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