花火も嫌い?
やがて太陽が西の地平線に沈み、東の空が紺碧に塗りつぶされる頃、号砲花火の代わりか、腹に響く破裂音に遅れ、一発だけ菊のような光が空を彩った。中央部が青く、縁に当たる部分が朱色で、薄闇の空に良く映えた。これから空を飾るだろう彩りを思い、観衆の心は踊る。
「はあ、近頃の花火は色んな色があるんだねえ」
千賀が感嘆の溜息を吐く。きぬは小さく笑った。
「きっとこの後、もっとたくさんの色が上がりますよ」
「へえ、例えば」
「そうですね、緑も水色も薄紅もありますよ。私は紫なんかも好きですけど」
「花火って朱色だと思ってたよ」
「舶来の技術なんです。少し前までは千賀さんが仰るように、朱色しかなかったはずです」
「あんた良く知ってるね」
千賀が感心した呟きを漏らしながら空を見上げる。きぬもそれに倣った。
薄い浴衣の袖を、涼やかな風が通り抜ける。軽く汗ばんだ肌を撫でる微風に、きぬは目を細めた。
辺りを見回せば、人間も天狗も一様に首を
周囲の観客を見回す流れで首を巡らせ、義真の黒い瞳と視線が重なる。彼はきぬを見ていたらしい。どうしたのかと首を傾ければ、相変らず寡黙な彼は何も言わず、手元のおでんに視線を戻した。こめかみ辺りに汗が一筋。真夏におでんなど、買うべきではなかったかもしれない。
それは、突然だった。どん、と大きな音が土手に反響し、次いで鮮やかな光が夜空に咲き誇る。辺りから、思わず漏れ出る歓声。きぬも、声を上げたかもしれない。ただし、きぬの声音は周囲とは少し異なっていた。
「きぬ」
気づいたのは、意外にも義真だった。花火玉に付けられた笛が空を走る音、火薬の破裂音、人々の騒めきと、光の洪水。その中で、呼びかけられたきぬは義真を振り仰いだ。目が合えば、珍しく彼の瞳が揺れる。その訳は、
己の頬を、温かいものが流れ落ちる。それに気づき、きぬは激しく動揺した。その瞬間、煌びやかで楽しいはずの花火が、とたんに恐ろしいものに見える錯覚に苛まれた。
あれは、人が意図して操作した、夜空に描かれる芸術作品。人を喜ばせるものであって、決して誰かを怯えさせるためのものではない。それでも、きぬは次第に身体が震えるのを感じた。
怖い。確かにそれは、恐怖であった。その場違いな感情に気づき、驚愕する。義真の目が驚きに見開かれているが、千賀と俊慶は夜空に夢中で気づかない。二人を邪魔してはいけない。せっかくの夫婦水入らずなのだ。それに、義真だってきぬに付き合わせる必要はない。
きぬは咄嗟に俯いて、拳で涙をぬぐった。どん、と腹を震わせる大きな音が響く度、恐怖心は増すようだった。
「きぬ」
「ごめんなさい、ちょっと」
それ以上は堪え切れず、きぬは花火に背を向けて土手を駆け上る。花火が始まり、客足が引いた屋台の横を駆け抜ける。店主は
川辺から逃げるように走るが、光も音も、きぬを追いかけてくるようだ。
一体どうしたというのだろうか。自分の身体が、思う様に動かない。赤子のように涙が止まらない。なぜこれほどまでに胸が苦しいのか。
草履が下草を踏む音がした。次いで、
「どうした」
短いが、きぬを案じる聞き慣れた声。子供のように駆け出して大泣きしているだなんて恥ずかしくて、きぬは膝に額をつけて首を振った。
「きぬ」
静かに呼びかけられれば、答えない訳にはいかない。何か言わなければ義真は困惑し、棒のように突っ立ったまま、きぬの名を呼び続けるのだろう。さすがにそれは可哀そうだ。
「わかりません。でもあれ、嫌なんです」
「花火か」
きぬは頷く。義真はやや間を置いてから言った。
「何か思い出したのか」
そうなのかもしれない。花火を見て怯えるだなんて、何も知らぬ赤子ならいざ知らず、大の大人が一体なぜ。
「何を、思い出した」
配慮に欠ける問いかけに、きぬは振り返る。怖いと震える人間を追い詰めるかのように、今それを訊く必要はあるのだろうか。きぬが鋭い視線を義真に送ったのはきっと、これが初めてであっただろう。彼の瞳は微かに狼狽の色を宿した。それから声音だけはいつもの通り、落ち着いた調子で言ったのだった。
「ひとまず、家に帰ろう」
きぬは己の身を腕で抱きながら、小さく頷いた。
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