後日談、そして

Ψ


 とろりとした黒蜜が、半透明の寒天の上を滑る。それらをしっとりとした粒あんと共に匙に掬えば、口いっぱいに広がる甘味かんみを予測した唾液腺が刺激されて、頬が痛むほどである。


 澄は本日、あんみつを持参して園田そのだと共に奄天堂えんてんどう家を訪れている。先日の騒動のお詫びをするためだ。結末はともかく、澄が園田に助けを求め、園田が宗克むねかつにのぞき太郎役を押し付けたがために、巻き込んでしまったのだから。


 その園田は、騒がしさから逃げた義真ぎしんを追いかけて書斎に押し入り半刻以上、姿を見ていない。


 壽々子すずこは事件後に改心したらしく、あの晩を最後に澄は軟禁を解かれ、無事女学校に復帰をした。友人である美弥子みやこりつは泣きながら澄の復学を喜んでくれた。


 勉学に追いつくのは骨が折れたけれど、部屋に籠っていたのはせいぜい数日だったので、比較的容易に後れを取り戻すことができたのは幸いである。


「じゃあ、大迫おおさこ家に出たのぞき太郎が、隣町を騒がせていた元祖太郎だったんだね」


 奄天堂家の客間にて。宗克が仕入れてきた情報を反芻はんすうして、きぬは目を丸くする。


「この前大迫家に出たのが元祖で、去年捕まえたのぞき太郎は模倣犯一。それに矢渡やわたりさんは模倣犯二」 


 そう、一連の怪人事件の顛末は、複雑極まりない。どうやらのぞき太郎は、現在判明しているだけでも三人存在するらしい。


 一人目はおそらく元祖と言っても差し支えないだろう、昨年より新聞を騒がせていた、隣町によく現れる熟女好き太郎。先日大迫家に出没した男と同一人物である。捜査によれば近隣の町の住人らしく、賭け事好きが高じて借金にまみれ、妻子に逃げられた過去がある。その寂しさから犯行に及んだらしいが、つまりはただの変態である。


 そいつと間違えて昨年義真らが捕まえたのは、模倣犯であったようだ。奴はただ単に妙齢の女性が暮らす家を渡り歩いていたらしいが、たまたま奄天堂家でお縄になった。この男もまた、何の捻りもない変態である。


 けれども矢渡は。彼には明確な目的があるように思えて仕方がない。あの男は澄との見合いの席でも奄天堂家の事情を気にしていた。いかに矢渡が変人と言えども、あれはさすがに異様過ぎる。奄天堂夫妻のことは、昨年ののぞき太郎逮捕時の新聞で知ったと言っていた。絶妙にほとぼりが冷める頃合いを見計らい、この度の犯行。裏があるようにしか思えないのは澄だけだろうか。


 矢渡の名を心中で唱えれば、知れず眉間に皺が寄る。あれ以降、矢渡とは顔を合わせていない。見たくもない顔であったものの、奇怪な行動の真意は、問いただしてやりたい気分でもある。


「ごめんなさい、きぬさん。私の縁談が原因で変な男をこの町に呼び寄せてしまいました」


 肩を縮こまらせて謝罪を口にすれば、きぬは朗らかに笑う。


「澄さんのせいじゃないよ。うちは前回ののぞき太郎事件の時に新聞に載って有名になっちゃったから、そういう変な人を呼び寄せてしまうのかも。あ、そういえば矢渡家から、本家の人がお詫びに来てくれるって」

「本家」


 澄が復唱すれば、きぬは頷く。


「うん。日程は調整中なんだけどね」


 矢渡の本家と言えば、元々澄との縁談があった、暴力疑惑男が若旦那をしている家である。澄は一抹の不安を覚える。きぬは、澄の不安げな表情には気づかぬようで、上機嫌にあんみつを咀嚼していた。仕方なく宗克に視線を向けてみたけれど、義姉と同様に甘味に首ったけの様子である。


「あの、きぬさん」


 妙な胸騒ぎがして、呼びかけた時だった。


「ごめんくださぁい」


 不意に、玄関の辺りから幼子の声がした。口元に寒天を運んでいたきぬだったが、急な来客を受け、やや残念そうに匙を下ろす。そのまま腰を上げようとしたところ、宗克が制止した。


「義姉さんはゆっくりしていて。俺が出て来ます」


 毎月の訪問とはいえ、澄はきぬの客人である。宗克は気を遣ってくれたのだろう。やはりあの青年、不器用ながらも思いやりがある。澄は偽りなく感心した。初対面で不審者だと思ってしまったことに、胸がちくりと痛む程度には、宗克を見直しているのである。


 それからあんみつを一口頬張って、束の間甘味の世界に浸り……続いて聞こえた素っ頓狂な声に、危うくあんこを噴き出すところだった。


「えええ!」


 言うまでもなく、宗克の絶叫である。澄ときぬは束の間顔を見合わせ、あんみつの竹筒を置いて玄関へと慌ただしく向かう。何事かと、書斎から義真と園田が姿を現した。


「宗克さん、どうしたの」

「あ、ええと」


 きぬが幾らか緊迫した声音で問いかける。引き戸の横で、今にも泣きだしそうな心許こころもとなげな表情の宗克。なんとも情けない様子であるが、続く来客の叫びを耳にして、澄は石になる。


「まーま!」


 甲高い声と同時に、子猫のように俊敏に、室内に飛び込む者がある。脱ぎ捨てられた小さな草履が片方、勢い余って廊下に転がった。


「まーま!」


 声を上げながら頼りない足取りで廊下を駆けるのは赤い着物の女の子。年の頃は二つか三つくらいだろうか。幼子は真っすぐにきぬの脚に突進し、そのまま小さな腕を伸ばして抱きついた。


「まま」


 誰もが驚愕に一切の思考を失う。奄天堂夫妻には、子供はいなかったはず。けれどもここには、きぬをままと呼ぶ女の子がいて、そして。



 呼び掛けに、きぬが緩慢な動作で顔を上げる。混沌と化した玄関口。唯一平静を保つ男がいた。彼はきぬの姿を真っすぐ捉え、相好を崩す。


「やっと見つけた、。会いたかった」


 とんだ修羅場に出くわしたようだ。



第七話 終

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