第八話 囚われの姫君を救出せよ 其の二

家に帰ろう

「きい、家へ帰ろう」


 きぬは男の顔を見上げる。奥二重ながら大きな眼が特徴的で、精悍な印象の男である。義真より幾らか若い年頃と見える。初めて会う男性だと思った。それなのに、男の声が耳朶じだを震わせる度、確かに胸に響くものがある。


「どうした。俺のことが分からないのか」


 男の顔が次第に苦し気に歪むのを、きぬはぼんやりと眺めた。


「本当に、全て忘れてしまったのか。綾子あやこのこともか」


 腿にしがみ付く幼子の腕に力が籠った。綾子とはきっと、この子のことだろう。見下ろせば幼子は顔を上げ、無邪気な眼できぬを射抜いた。


「まーま」


 その言葉が、自分に向けられたものだとは思えなかった。それでも綾子が見つめるのはきぬだけであり、あの呼び掛けは紛れもなくこちらに向かって発せられている。誰もがきぬの言葉を待っている。わかってはいるけれど、混乱した頭では適切な言葉を選び取ることができない。この場の空気感に急かされた唇が、ひとりでに動く。


「私は」

「ちょっと待った!」


 暗黒の緞帳どんちょうに覆われたような重苦しさを打破したのは、宗克むねかつだった。


「誰ですか、きいって。人違いですよ。だって義姉さんは」

矢渡やわたり季糸きい。妻の名前だ。俺の名は聡一そういち。この子は綾子。季糸、覚えているだろう」


 季糸。聡一。綾子。口の中で転がしてみれば、収まるべき物があるべき場所に帰ったような心地がした。澄が背後で「矢渡!」と呟いたが、気が動転したきぬの耳には入らない。宗克が、なおも言い募る。


「だって、そんな馬鹿なこと。なあ兄貴、何とか言ってやれよ」


 義真ぎしんも動かない。ただ、瞠目して眼前の父子に視線を注ぐだけ。聡一が一歩前に踏み出して、きぬに手を伸ばす。


「ひとまず帰ろう。それから落ち着いて一緒に」

「待ってくださいって! 義姉さんがその季糸さんだって証拠はあるんですか」


 宗克の言葉に聡一は軽く眉根を寄せてから、小さく吐息をついた。


「季糸の背中には火傷があるだろう。彼女の祖父が花火師でね、幼少の頃、事故で花火の誤爆に遭って負った傷だ。それと、失くしていなければ実家の紋が入った巾着を持っているはず」


 義真の眉が動いた。きぬの肩も反射的に震えた。きぬは懐から、いつも肌身離さず持っていた、抱き楓の刺繍が入った巾着を取り出す。広げられた天狗の翼のような紋が、きぬを見つめ返す。


 抱き楓の刺繍。記憶がなくとも、これがとても大事な物だということを、本能のようなもので理解していた。それは間違ってはいなかった。抱き楓はきぬの実家の家紋であったのか。


 そして背中の火傷。誤爆に遭ったと言われれば、どこかぼんやりした記憶の彼方に、そのような光景が浮かび上がる。赤に青の煌めき、腹の底を叩きつけるかのような爆音、肌を焼く灼熱。恐ろしい。きぬは思わず自分の腕を抱いた。その指先に挟んだままの巾着を、聡一が抜き取った。


「間違いない。『きゐ』と刺繍されているだろう」


 聡一の指先が、文字の凹凸おうとつをなぞる。古びて毛羽立っていたので『きぬ』だと思っていたのだが、実のところ『きゐ』であったとは思いもよらなかった。


 として過ごしたこの二年間は、偽りの日々だったのだろうか。きぬは顔を上げる。義真の射干玉ぬばたまの瞳と視線が交差する。それは束の間重なって、すぐに逸れた。胸に突如大きな穴が空いて、冷たい物が流れ込んだ。


 聡一が、きぬの手を取る。柔らかく触れるその指に、抗う気力はなかった。


「車を待たせている。一緒に帰ろう」


 言葉が見つからない。きぬは腕を引かれるがまま、草履を足に引っ掛けて、玄関から一歩外へと踏み出す。


「待ってくださいよ、そんな急に連れていくだなんて……なあ、義姉さん!」


 必死で引き留めてくれる義弟の声に、現実に引き戻された。


「宗克さん」

「申し訳ないが」


 きぬを遮り聡一は、目を細めて宗克を冷淡に睥睨へいげいする。


「季糸は君の姉ではない。矢渡一族の者だ。これまで世話になった礼は、後日落ち着いた頃に改めていたしましょう。取り急ぎ、先日の不祥事のお詫びです」


 宗克に菓子折りを押し付けて、詫びとは思えぬ態度で一方的に言い捨てる。有無を言わさぬ語調に、いよいよ誰も反論する者は現れなかった。

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