実感のない真実
自動車の駆動音が、聴覚を占領している。車内では、
「
何度か呼ばれてやっと、それは自分に対する呼び掛けなのだと理解した。どうしても緩慢な仕草になってしまう。いつにも増してぼんやりとした様子のきぬに、ほんの一瞬だけ、聡一が冷たい視線を送ったようだ。
その瞬間、きぬは背筋が凍るような感覚に苛まれる。直後、自動車が石を踏みつけて大きくひと揺れ。振動が収まれば、彼の眼には柔和さが戻っていた。きぬは拳で目を擦った。
「眠たいのか」
「いいえ。そんなことは」
「それなら、綾子の話を聞いてやってくれ」
膝の上に座り、きぬの胸にしがみ付いて離れない幼子の頭頂を見下ろす。聡一が夫であるというやり取りも、どこか遠い場所で繰り広げられた、それこそ白昼夢の世界での出来事のよう。
それ以上に、この綾子という幼子が、きぬが腹を痛めて産んだ子だという話は、いっそう信じがたい。けれども自身の戸惑いに気づいた時、きぬは大きな失望を覚える。我が子を突き放すような思考に至っているのだ。あまりに冷酷ではなかろうか。
「まーま、あのね」
健気な綾子は反応の薄い母親に苛立ちも見せせず、もう一度最初から話し始めた。
「まま。あのね、はぜとった。えらい?」
「はぜ……」
ちりり、と頭が痛む。こめかみの辺りを指先で抑えたきぬ。聡一はきぬの膝から綾子を引き離すように抱き上げた。
「
「そう、でしたっけ。私も集めていましたか?」
聡一は綾子をすっぽり胸に抱きしめ、娘の柔らかな髪を撫でる。目の端できぬを一瞥してから、「ああ」と小さく頷いた。
櫨の実。言われてみれば、とても身近なものであったように思えるが、それを集めた記憶は一向に蘇らない。いや、そもそも矢渡家での暮らしの一切が、雲でも掴もうとするかのように曖昧である。
きぬは腕に残った綾子の温もりを抱き締めながら、振動する膝辺りをじっと見つめた。そのまま黙りこくるきぬに、聡一は微かに溜息を吐いたようだった。
「無理に思い出さなくても良いのだが、綾子を不安にさせないで欲しい」
「ごめんなさい。でも」
実感が湧かないのである。だがそれを言葉にすれば、綾子が哀れだ。きぬはすんでのところで口を閉ざし、代わりに聡一に問うた。
「私、どうして家から出たのでしょうか。なぜ記憶がないのだろう」
聡一は綾子を撫でながら、束の間の躊躇の末、口を開いた。
「近くの崖から転落したようだ。土砂崩れに巻き込まれたらしい。崖の上には季糸の草履と、血液が付着した着物の切れ端が残されていた」
聡一はこちらを見もしないけれど、その眼差しはどこか遠い過去に注がれている。
「探させたんだ。だが、何の手がかりもなかった。あの日は雷雨だったし、足跡も血痕も全て流されてしまっていた」
だから見つからなかった。無理もない。あの雨の日、きぬは義真に拾われて、山奥の天狗小屋に向かってしまったのだ。
「結局発見に至らず、そのまま季糸は……死んだものとして扱われた。同じ災害で他何名かの犠牲者が出たし、遺体が出なくとも季糸も同じだろうと」
「じゃあ私は矢渡家では、もう死んだ人間なんですね」
「だが、季糸は生きていた」
聡一はやっとこちらに視線を向けた。きぬは首を傾ける。
「どうして私を見つけたんです」
「知人がお前を、
「従弟……、もしかして、のぞき太郎」
澄の縁談相手も矢渡という男であった。そして、矢渡が引き起こしたのぞき太郎騒動の詫びに、本家から使いが来るとも聞いていた。聡一と綾子がそれだろう。何の前触れもない押しかけは礼を失しているし、お菓子をくれたのは良いとしても、そもそも何の詫びもされていないのではと思ったが。
聡一は眉間を拳で
「誤解しないで欲しいが、何も他人の家に忍び込めとは指示していない。結果的に犯罪者を矢渡家から出したのは、あの天狗らには申し訳なく思う」
あの天狗ら。矢渡の言葉が全て真実だとするのならば、義真ときぬの関係は何になるのだろうか。そもそも、『きぬ』という人間自体、この島国には存在しないはずなのである。ただし戸籍上では季糸は命を落とし、代わりにきぬが現れた。
「あの、そ、聡一……さん」
呼びかけに戸惑いつつも口を開いてみれば、彼は小さく首を傾ける。
「やっぱり私、家族にちゃんとお別れを」
「家族はここにいるだろう。お前は矢渡季糸。昨日までの暮らしは悪い夢だ。頼むから綾子の前でおかしなことは言わないでくれ」
聡一の眼差しが、
車内が沈黙で満たされる。時折大きく揺れて固い椅子がきぬの尻を打ったけれど、しばらく進めば見慣れた赤煉瓦の駅舎が
汽車に乗り、きぬは矢渡家へと向かう。白黒の蒸気と排煙を噴き上げる汽車を降りれば、きぬはきっと、季糸になるのだろう。
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