台所はひんやりとして

 廊下に出ると、冷気の腕が全身を撫でる。板張りの床は氷結した湖のように冷たい。ちらりと右側を見遣れば、書斎の扉。木目が美しいそれを横目に、きぬは台所へと向かう。


 急須に茶葉を惜しげもなく入れて、茶釜に沸いた湯を柄杓ひしゃくで掬い、こちらもたっぷり流し込む。深緑色に彩られた漆塗りの銘々皿めいめいざらの上に懐紙を敷いて、みたらし団子を三つ乗せた。艶やかな黄金色の餡に包まれたそれを垂涎すいぜんの眼差しで見つめてから菓子切を選び、全てを盆に乗せる。


 そのまま客間に戻ろうとし、思い直して足を止める。きっと澄はまだ、読書の最中だろう。あまりにも早く戻ってしまえば、澄は気を遣うはず。きぬは盆を置いて、手持ち無沙汰に軽く掃除を始める。


 何をしていても誰と話していても、ふとした拍子に脳裏に浮かぶのは、あの真っ白な便箋。さすがに内容はあらためず、すぐに箱に戻したけれど、己が犯した過ちに対する罪悪感と同時に、義真への不信感を抱いたのも事実である。


 どうしてあんな場所に隠していたのだろうか。やましいことがないのであれば、堂々と引き出しにしまっていれば良いのに。


 それと、『還る鳥』。確か、三年ほど前から連載をしている小説である。こちらに越して来る前に、山の家で初めてそれを読んだ時。きぬはおぼろげに察したのだ。あれは、死なせてしまった前妻を弔う物語なのだと。


 それはきぬの一方的な想像で、義真に確かめたことはないし、互いのためにも触れるべき話題ではないと、理解していた。だが先日。発熱にうなされていた、怪人事件の晩。喉が渇いて寝室を出た際に、男三人衆の会話が意図せずとも耳に入ってしまった。



 ――先生、どうして『還る鳥』終わらせてしまうんです? 人気絶頂でしょう。

 ――書けないからだ。

 ――書けない?。

 ――あれは、死者が己を悼む家族や人間を訪れる話だ。死者は、成仏させてやらねば。

 ――なるほど。きっと、題材となった故人がいるんですね。



 園田の言葉に、義真は反論しなかった。それが、寡黙な彼の回答であった。もっとその場にいれば、何か続きがあったのかもしれないが、息を吞んだ拍子に床を、と踏み鳴らしてしまったきぬは、立ち聞きに気づかれる前に、慌てて寝室へと引き返したのである。


 『還る鳥』は、義真ときぬが出会うずっと前から連載をしているのだ。だから義真が、縫物をするきぬの隣や、あの静かな書斎の中で、智絵を思いながら文字を綴っていたのだとしても、彼には何の非もない。二人の間に割り込んだのは、きぬの方である。


 人気がなければとうに連載を止めていたのかもしれない。けれどもありがたいことに、『還る鳥』は誰もが知る人気小説となった。書き続ける他なかったのだ。


 そうやって、自身の心に必死で言い聞かせていることに気づき、きぬは己の身勝手さに失望する。智絵は智絵であり、きぬはきぬだ。なり代ることはできない。ましてや智絵と過ごした義真の日々を、消し去ることはできないし、その必要性もない。わかっているのに、どうしてこうも胸が痛むのだろうか。


「……いけない。お茶が冷めちゃう」


 そろそろ澄も、『還る鳥』を読み終えた頃合いだろう。奮起するため、あえて呟いて、きぬは頬を二度叩く。ぺちぺちと乾いた音が竈や鍋に反響した。せっかく澄が来てくれているのだ。きぬの個人的な心持ちのせいで、客人に気を遣わせる訳には行かない。


 きぬは盆を抱え、台所を後にする。今度は左側に書斎の扉が見えたけれど、一瞥することもなく、相変わらず雪を踏むような冷たさを足裏に感じながら、客間に戻ったのである。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る