月刊黎明

 はかまを脱いで、縞模様の素朴な着物に着替える。帰宅するなり慌ただしく身支度を始めた澄に、女中である光江みつえが怪訝そうな視線を寄越したが、この家では比較的理解のある彼女のこと。見て見ぬふりをしたのか、特別声を掛けられることもなかった。


 麻の葉模様の風呂敷の中央に『月刊誌 黎明』を置いて、取っ手が出来るように包み、手に提げてひっそりと門を出る。この日のようにお稽古事がない午後は、気分が清々しくなる。澄は他の年頃の女子と同様に、複数のお稽古に通っているのだ。


 洋琴ピアノ、華道、茶道。洋琴は比較的好きだったけれど、どの習い事も技術の習熟度合いは重視されていないようだ。目的の一つは礼儀作法の習得。もう一つは見合いの席で「ご趣味は?」と訊かれた時に恥をかかぬようにするためである。


 目的の奄天堂えんてんどう家は、通りの向こう側、やや北に向かった場所にある。大迫家からほんの少し歩けば辿り着くその門から、玄関の内に声を掛けた。


「奄天堂さん、こんにちは。いらっしゃいますか」


 答えはない。もう一度声を張ってみるのだが、屋内からは足音一つしなかった。留守だろうか。宗克はまだ帰っていないにしても、きぬがいると思い、足早に訪ねて来たのだが。しばし所在なく立ち竦んでいたところ、宗克が帰宅したらしい。彼は澄の姿を目にすると、手にした風呂敷を軽く持ち上げて、こちらに合図を送った。中身は絶品みつ豆だろうか。


「宗克さん、お帰りなさい。きぬさんお留守みたいなんです」

「この時間に? 八百屋やおやにでも行ってるのかな。まあすぐ戻るだろ。とりあえず、お上がり」


 宗克に促されて、失礼する。客間に通してもらい、座布団に正座をして一息つくと、早速風呂敷を開く。宗克が茶を淹れてくれている間に、紙面に目を落とした。


 広告欄を流し読みして、雑学のページに目を遣る。今月は、食材の栄養素についての記事らしい。蕃茄トマトがいかに健康に良いか書き連ねられているのだが、あいにく未だこの島国には馴染まぬ食物である。せっかくなら、いつも食べているような身近な食材を題材にしてくれたら良いものを。澄は指先で頁を捲る。


 続いて目に入るのは、歴史小説。連載物ではなく、歴史的偉人の秘話を物語形式にして面白おかしく展開している。小さく笑い声を立てながら読み終えて、さらに次へ。


 見開き一面に現れたのは、連載物の目玉である大衆小説だ。達筆で記されたその題は『かえとり』。若くして死んでしまった天狗の女性が、からすになって家族や友人の元へ戻って来る、という涙腺を刺激する内容だ。


 実はこの小説に触発されて、澄も短編ではあるが物語をいくつか執筆した。それを『黎明』含む、いくつかの雑誌に投書している。いずれも結果は芳しくないのだが。


 黒々とした鴉の挿絵に、今月はどのような物語が展開されるのかと、胸躍らせる。ちょうどその時、宗克が盆に湯呑と急須を乗せてふすまを開いた。


 玉露ぎょくろを湯呑に注ぎ、彼は傍らに置いた風呂敷から青々とした竹の一節を取り出した。やや斜めに切り取られた竹の中に、透き通る寒天と赤えんどう豆、滴る黒蜜。そして豪快に乗せられた粒あんが見える。


「みつ豆、ですよね」


 雑誌を膝に置いて聞いてみたところ、宗克は少し得意気に胸を張ったようにも見えた。


「その一種なんだけど、これは最近流行っている甘味で、あんみつ、と言うらしい」

「あんみつ。あんことみつ豆、ということでしょうか」

「そうらしい」


 どうぞ、と促されて、お先に一口いただく。黒蜜だけでも頬が落ちるほどに甘く美味なのに、その上あんこを乗せるだなんて。澄は耳の下辺りがつんと痛み、唾液が湧き出るのを感じて頬に手を当てる。


「美味しい。これ、考えた人天才ですよ」


 澄の様子に、いても立ってもいられなくなったらしい宗克も、匙の上に寒天と豆と粒あんを絶妙な比率で乗せる。その匙加減、まさに玄人。そのまま一口大きく含んでから、彼は幸せそうに微笑んだ。


「これは。行列ができるのも納得だな」


 惚れ惚れとした様子であんみつを眺める宗克に、澄は思わず笑みを漏らした。それに気づいた宗克は、だらしなく緩んでいた頬を引き締めて、咳払いをする。


「とりあえず俺はあんみつ食べてるから、君は気にせず『黎明』でも読んでてくれ」


 客人を差し置き嬉々として匙を運ぶ様子を見るに、宗克は甘党なのかもしれない。


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