今日も平和
Ψ
「だから俺は、何とか太郎じゃねえですって」
「今更そんな言い訳が通用すると思うな」
騒ぎを聞きつけたご近所さんが警察を呼んでくれた。屈強な男に囲まれても、怪人のぞき太郎は往生際が悪い。
改めてその風貌を観察すれば、「怪人のぞき太郎」という
「奥さん、こいつで間違いはないですよね」
巡査の確認に、相変らず
「はい。間違いありません。夕方にも我が家の庭にいたんです」
「だそうだ。とりあえず詳しく事情聴取を」
「いやいや、夕方に庭にいたのは本当ですよ。でもその、の……のぞき太郎……ってのは知りませんって」
「黙れ! 他人の家を覗いていたのは間違いないんだ。おい、連行しろ」
指示を受けて、黒い
「いやはや、一時はどうなる事かと思いましたね」
締まりのない口調で言ったのは、園田である。宗克は頷いた。
「そうですね。あのまま逃げられていたら」
「あ、それもそうだけどね。ゴムパチンコと
全く邪気のない口調で言われたので、「そうですね」と素直に答えそうになってしまい、半分開きかけた口を閉ざす。義真に目を遣れば、袖の下で腕を組みながら、軽く眉根を寄せた。それから一言。
「別に、良いだろう。あんな奴」
「先生、ご冗談がお上手ですね、ははは」
冗談を言うような天狗ではない。義真は、
「園田さん、ゴムパチンコと梯子って?」
きぬが余計なことを問いかけるので、考えれば考えるほど己の行いの凶悪さが思い起こされて、罪悪感が湧いてくる。宗克は園田ときぬの間に身体を割り込ませ、何でもない、と手をひらひらさせた。
きぬは怪訝そうに首を傾けるのだが、予期せぬくしゃみが二度飛び出して、発熱の
「きぬ、戻ろう」
何事もなかったかのような声音で義真が言えば、きぬは素直に頷いて、園田に向き直った。そのまま、丁寧に頭を下げる。
「園田さん、今日はありがとうございました」
「いえいえ、お役に立てて良かったです」
役に立ったのか? という疑問がなくもないのだが、彼が善意から協力してくれたのは、間違いない。宗克も礼を述べ、寡黙な義真は軽い会釈で
「では
「おやすみなさい」
にこやかに手を振り去って行く園田だったが、十字路まであと僅か、といったところで不意に脚が止まる。何事か、また不審者か、と思いきや、振り返った彼は、決まり悪そうに頭を掻いていた。
「しまった。もう電車がない時間です。申し訳ございませんが、今宵はご厄介になっても?」
言われて宗克は、懐中時計を取り出そうと帯をまさぐる。鎖を探った指先が空気を撫でて、今は所持していないことを思い出す。
澄んだ晩秋の空は天狗の翼のような深藍に染まり、星々はまるで、散りばめられた金銀の砂粒のようだ。もうとっくに夜が更けている。当然、路面電車の
「どうぞ、家でよろしければ。良いよね、義真さん」
きぬが言うと、義真はほんの少し面倒臭そうに口を引き結んだが、拒絶はしなかった。
Ψ
その後数日間、奄天堂家には記者と野次馬がひっきりなしに訪れて、騒がしい日々を過ごすことになる。世間を騒がせたのぞき太郎を逮捕したお手柄と言うことで、一家揃って取材を受けて、新聞の紙面を飾りもした。
そんな騒々しさが一段落した頃。園田と奄天堂家の男衆は、激しい高熱に
庭の木が巨大な柿を産んだ。嬉々として食べようとしたきぬが、それを包丁で真っ二つにする。すると中から生まれたのは、胸毛が密集した半裸の男。怪人のぞき太郎である。
「うわあああああ」
「……さん、宗克さん!」
耳元で呼ぶ声に気づき、覚醒する。目を開ければそこには、すっかり快復して顔色が良くなったきぬの姿がある。
「どうしたの。大きい柿が、って叫んでいたよ」
「……柿の木が柿を産んだんだ……。そこから怪人が」
いや、待て。いったい何を言っているのだろう。あまりにも滑稽な夢である。口を閉ざした宗克に、きぬは呑気な笑い声を立てた。
「宗克さんったら。いくら庭の柿の実を腐らせるのがもったいないからって、夢にまで見るだなんて」
口元を手で覆いながら、心底
幸福なことに何の記憶もないのだろうきぬは、どうにも笑いを収められないようで、楽し気な足取りで台所方面に戻って行く。その手には、木製の
心根の優しいきぬに、胸の奥に温かなものが充満したのだが、続いて室内に響いた言葉が、全てを台無しにした。
「義真さん義真さん。宗克さんたらね、柿が柿を産んだんだって!」
いったい何のことやら、と首を傾ける義真の顔が見えた気がした。奄天堂家は、今日も平和である……のだろう、きっと。
第五話 終
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