今日も平和

Ψ


「だから俺は、何とか太郎じゃねえですって」

「今更そんな言い訳が通用すると思うな」


 騒ぎを聞きつけたご近所さんが警察を呼んでくれた。屈強な男に囲まれても、怪人のぞき太郎は往生際が悪い。


 改めてその風貌を観察すれば、「怪人のぞき太郎」という卑猥ひわいさすら感じさせる通称に拍子抜けするほど、特徴の薄い男であった。足音が高くなるのを嫌ってだろう、下駄ではなく草履を履いている。着物はやや擦り切れていて、晩秋だというのに妙に薄着で襦袢じゅばん襯衣シャツも着ていない。はだけた胸元からは薄っすらと毛が見て取れて、これは少し汚らしい。


「奥さん、こいつで間違いはないですよね」


 巡査の確認に、相変らず半纏はんてんを着込んだきぬが、寝ぼけまなこで頷く。


「はい。間違いありません。夕方にも我が家の庭にいたんです」

「だそうだ。とりあえず詳しく事情聴取を」

「いやいや、夕方に庭にいたのは本当ですよ。でもその、の……のぞき太郎……ってのは知りませんって」

「黙れ! 他人の家を覗いていたのは間違いないんだ。おい、連行しろ」


 指示を受けて、黒い詰襟つめえり制服姿の男らが、現行犯を追い立てて行く。足元を照らすのは、懐中電灯から発せられる頼りない薄明り。何度かつまずきながらも、怪人のぞき太郎は何か戯言ざれごとめいたことを捲し立てていたが、聞くだけ時間が無駄である。


「いやはや、一時はどうなる事かと思いましたね」


 締まりのない口調で言ったのは、園田である。宗克は頷いた。


「そうですね。あのまま逃げられていたら」

「あ、それもそうだけどね。ゴムパチンコと梯子はしご攻撃のことですよ。直撃していたら、怪人さんお亡くなりになっていたかも」


 全く邪気のない口調で言われたので、「そうですね」と素直に答えそうになってしまい、半分開きかけた口を閉ざす。義真に目を遣れば、袖の下で腕を組みながら、軽く眉根を寄せた。それから一言。


「別に、良いだろう。あんな奴」

「先生、ご冗談がお上手ですね、ははは」


 冗談を言うような天狗ではない。義真は、せぬ、というような毎度おなじみの表情で、園田を眺めている。


「園田さん、ゴムパチンコと梯子って?」


 きぬが余計なことを問いかけるので、考えれば考えるほど己の行いの凶悪さが思い起こされて、罪悪感が湧いてくる。宗克は園田ときぬの間に身体を割り込ませ、何でもない、と手をひらひらさせた。


 きぬは怪訝そうに首を傾けるのだが、予期せぬくしゃみが二度飛び出して、発熱の悪寒おかんからか、身震いをして自身の腕を摩った。


「きぬ、戻ろう」


 何事もなかったかのような声音で義真が言えば、きぬは素直に頷いて、園田に向き直った。そのまま、丁寧に頭を下げる。


「園田さん、今日はありがとうございました」

「いえいえ、お役に立てて良かったです」


 役に立ったのか? という疑問がなくもないのだが、彼が善意から協力してくれたのは、間違いない。宗克も礼を述べ、寡黙な義真は軽い会釈で謝意しゃいを伝えた。


「では奄天堂えんてんどう家の皆さま、良い夜を」

「おやすみなさい」


 にこやかに手を振り去って行く園田だったが、十字路まであと僅か、といったところで不意に脚が止まる。何事か、また不審者か、と思いきや、振り返った彼は、決まり悪そうに頭を掻いていた。


「しまった。もう電車がない時間です。申し訳ございませんが、今宵はご厄介になっても?」


 言われて宗克は、懐中時計を取り出そうと帯をまさぐる。鎖を探った指先が空気を撫でて、今は所持していないことを思い出す。


 澄んだ晩秋の空は天狗の翼のような深藍に染まり、星々はまるで、散りばめられた金銀の砂粒のようだ。もうとっくに夜が更けている。当然、路面電車の警笛けいてきも駆動音も、人の騒めきもない。野次馬ですら、自宅に戻り布団に包まっている頃だろう。どこかで猫が一声鳴いた。


「どうぞ、家でよろしければ。良いよね、義真さん」


 きぬが言うと、義真はほんの少し面倒臭そうに口を引き結んだが、拒絶はしなかった。


Ψ


 その後数日間、奄天堂家には記者と野次馬がひっきりなしに訪れて、騒がしい日々を過ごすことになる。世間を騒がせたのぞき太郎を逮捕したお手柄と言うことで、一家揃って取材を受けて、新聞の紙面を飾りもした。


 そんな騒々しさが一段落した頃。園田と奄天堂家の男衆は、激しい高熱にうなされることとなる。きぬの風邪がうつったらしい。発熱があると息苦しくて、悪夢を見がちだというのは良く言われることである。宗克も病床で、身の毛もよだつような夢を見る。


 庭の木が巨大な柿を。嬉々として食べようとしたきぬが、それを包丁で真っ二つにする。すると中から生まれたのは、胸毛が密集した半裸の男。怪人のぞき太郎である。


「うわあああああ」

「……さん、宗克さん!」


 耳元で呼ぶ声に気づき、覚醒する。目を開ければそこには、すっかり快復して顔色が良くなったきぬの姿がある。


「どうしたの。大きい柿が、って叫んでいたよ」

「……柿の木が柿を産んだんだ……。そこから怪人が」


 いや、待て。いったい何を言っているのだろう。あまりにも滑稽な夢である。口を閉ざした宗克に、きぬは呑気な笑い声を立てた。


「宗克さんったら。いくら庭の柿の実を腐らせるのがもったいないからって、夢にまで見るだなんて」


 口元を手で覆いながら、心底可笑おかしそうにする義姉の顔を凝視する。きぬは、自分が夢の中で柿にうなされていたことを覚えていないのだろうか。あれほどまでに大きな声で、「柿、食べきれない」と叫んでいたのに。


 幸福なことに何の記憶もないのだろうきぬは、どうにも笑いを収められないようで、楽し気な足取りで台所方面に戻って行く。その手には、木製のたらいと真新い手拭てぬぐいがある。どうやら宗克の汗を拭ってくれていたらしい。


 心根の優しいきぬに、胸の奥に温かなものが充満したのだが、続いて室内に響いた言葉が、全てを台無しにした。


「義真さん義真さん。宗克さんたらね、柿が柿を産んだんだって!」


 いったい何のことやら、と首を傾ける義真の顔が見えた気がした。奄天堂家は、今日も平和である……のだろう、きっと。



第五話 終

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