第六話 過ぎ去りし日、帰る天狗

前編

真っ白な便箋

奄天堂えんてんどうさん、大迫おおさこです」


 月半ばの恒例行事、大迫澄の来訪である。明るい声を聞いて、きぬは火箸でつついていた火鉢から顔を上げた。


 澄は先日、庭の柿の実を尋常ない量貰ってくれて、お返しに艶やかな鱗の旬の秋刀魚さんまを下さった。柿は勝手に実るのに、大層なお返しをいただいてしまい、恐縮した。けれども澄は、秋刀魚は母からのお礼です、と言って、きぬの手に籠を半ば強引に押し付けたのだった。


 訊ねてみれば、どうやらくだんの「怪人のぞき太郎事件」にて、園田そのだと協力をして犯人を捕らえたことについての礼だという。澄の母、大迫壽々子すずこは、いつも自分では奄天堂家にやって来ない。きっとここが天狗の家だから。


 それでもあの事件を機に、壽々子を始めとするご近所さんから注がれる天狗先生への眼差しは、ほんの僅かなりとも柔らかくなったようだ。きぬとしても嬉しい限りである。


 このように頻繁な交流があるため、澄が奄天堂家を訪れるのは、何も月中だけではないのだが、今回は定期来訪の時期である。彼女の目的は明白だ。


「いらっしゃい、澄さん」


 玄関口に迎え出る。冬の低い陽射しを受けて、澄の瞳が微かなみどりを帯びている。ほぐし織りのあわせは淡藤色を基調とした配色。縞模様は大柄で、すらりとした澄にとても良く似合っている。羽織は上品な小紫こむらさきだ。


「毎月すみません」

「遠慮しないで。『黎明れいめい』取って来るから、少しこちらで待っていてね」


 客間に澄を通し、自身は今月号の『月刊黎明』を取りに茶の間に向かう。朝方に宗克が読んでいたので、長火鉢の横に無造作に伏せられていたはずなのだが、『黎明』は忽然と姿を消していた。誰かが片付けたのだろう。


 書籍は全て、書斎に収められている。この家で唯一開き戸がある部屋であり、義真が書き物をする時に使う仕事部屋だ。義真は講義に出かけており、在宅していないはずだが、念のため入室前に、木目が浮かぶ扉を軽く叩く。当然、返事はない。


 戸を引けば、古い書物と墨と、真新しい革張りの椅子の匂いが鼻をくすぐる。扉で隙間なく密閉されているため、全ての香りが滞留しているのだろう。


 書斎は義真の自室のようなものであったので、几帳面な彼は自ら頻繁に部屋を掃除しているらしい。きぬは、家中にはたきがけをする際に、この書斎も清掃のため訪れるのだが、ほとんどの場合塵一つ落ちていないのである。


 整然とした室内。捜し物は容易たやすい。目的の四角は、洋机テーブルの上にあった。義真が持って来たのであれば棚に、それも発行月順に収めただろうから、きっと宗克が乱雑に片付けたのだろう。


 きぬは、師走しわすらしく表紙に雪景色が描かれた『黎明』を手に取る。まだ読んでいないけれど、今月で義真が執筆している『還る鳥』が最終回を迎えるはずだ。


 澄が読んだら後で目を通してみよう。ぼんやりと考え、きびすを返す。その拍子に、あろうことか、着物の袖が筆立てにひっかかり、諸々もろもろの仕事道具があっという間に床に散乱した。


「あ、いけない」


 慌てて腰を屈めて拾い集める。幸い、万年筆の先は綺麗に拭き取られていたし、墨入れにもしっかりと蓋がされていたので、周囲が黒く染まることはなかった。


 筆の先を様々な角度から観察し、ひとかけらの破損もないことを確認してやっと、胸を撫で下ろす。壊してしまっても、義真はきぬを叱りはしないだろうけれど、これらは山で暮らしていた頃からずっと使っている仕事道具である。義真の相棒である彼らを傷つけることなど、あってはならない。


「よいしょ」


 我ながら年増のような掛け声を出し、腰を上げようとしたのだが。半ば膝を伸ばして屈んだ格好をしたきぬの視界の先。洋机の足元に、小さな箱を見つけた。きぬの手のひら二つ分ほどの木箱。漆塗りがされていて、縁側からの光を艶々つやつやと反射している。思わず手に取る。かなり軽かった。


 耳元に引き寄せて、軽く振ってみる。かさこそと、内容物が揺れる。蓋は跳ね上げになっており、掛けがねを外せばすぐに開くだろう。洋机の陰に、あからさまに隠してあった割りに、不用心にも施錠はされていない。


「なんだろう。ちょっとくらい見てもいいかな……。いや、だめだよね、勝手に」


 首を左右に振って、悪しき物の怪もののけの囁きを振り切るのだが。やはり気になり、素朴な意匠の掛け金に指を掛ける。何か、胸騒ぎを感じたのかもしれない。それこそ、女の勘というものだろうか。


「ちょっとだけ……」


 きぬは、掛け金を弾く。収められていたのは、便箋だった。何通か入っていたようなのだが、一番上に重ねられていた、真っ白な便箋に、目が釘付けになる。そこに記された文字を視線でなぞり、きぬは己が犯した罪を理解する。「榊原さかきばら」。義真の前妻、智絵ちえの旧姓である。

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