二通の手紙

 下調べが不足していたのだろう。電動式昇降機では最上階まで行くことができないと知った千賀は、昇降機を降りてから地団太を踏んだ……ように見えた。千賀は右膝を痛めがちなので、階段で最上階まで行くのは難儀なんぎするだろう。案の定、彼女は拗ねた口調で言い放つ。


「あたしらはここまでで打ち切りだね。若い奴らは上まで行って来たらいいさ」


 俊慶もにこやかに首肯しゅこうしている。それもそうか、と思い、きぬと宗克と三人で階段へ向かおうとしたのだが。


「おい、義真」


 不意に腕を掴まれた。肩越しに振り向けば、この老天狗。己の年齢もかえりみず、衝撃的なことを言ったのだ。


「あんた、もう若くないだろう」

「ぷ」


 噴き出したのは、誰だったか。おそらく宗克である。奴は慌てて誤魔化すように指を折り始める。その口が呪文のように唱える外国単語が、先ほどから同じものの繰り返しであると、外語を解する義真は気づいていた。


「宗克」


 不肖ふしょうの弟に意地の悪い感情が湧き起こり、義真は言った。


「歩くと記憶力が上がるらしい」


 いっそ、帰りは全て階段で下ったら良いだろう。そんな思いで発言をしたのだが、そこまで毒を吐く間もなく、きぬが手を叩いた。


「そうなんだ! じゃあ宗克さん、一緒に上まで行きましょう」


 何の躊躇ためらいもなく宗克の腕を引くきぬ。弟とはいえ若干の嫉妬を覚えたが、当の宗克はどちらでも良いような顔で義姉にされるがままになり、結局二人は階段へと向かった。


 きぬの余所行きの赤い袖が角を曲がるのを見送って、そういえば夏場の遠出の際はいつもあの薄物を着ているなと思い至る。


 あれは、智絵が遺したものではなく、きぬのために仕立てた着物。もちろん彼女によく似合う。智絵は黄色が好きだったので、明るい太陽のような華やかな色合いの着物が多かったのだけれど、穏やかな印象のきぬにはあまり似合わなかったのだ。


 買ってやった着物を気に入ってくれていると知れば、柄にもなく頬が緩む。けれども着たきり雀のようになるのも勿体ない。今度着物を買いに行こう。きぬの色白の肌にはきっと、寒色系もしっくりくるはずだ。


「義真、義真」


 ぼんやりとしていた義真の腕を、千賀がぺちぺちと叩く。案外力が強いのがこの老天狗である。視線を向ければ、意外にも千賀は生真面目な表情でこちらを見ていた。


「やっと三人になれた」


 その発言の意図が汲めず眉を上げる。千賀は義真と俊慶を促して、露台ろだいに出る。眼下の人間が小さな棒のようだ。平屋と洋風建築がのきつらね、遥か地の果てには、山脈すら見える。外周をぐるりと周り、向きを変えてみれば、天狗には馴染みの薄い海だって見えるかもしれない。


「ちょっと、きぬの耳に入れるには気が引ける話があってね。手紙、郵送しようかと思ったんだが、きぬが受け取ったら変に気を遣うかもしれないだろ」


 あの子は意外とだからね、と呟く千賀。なるほど。やはりこの来訪は、ただの旅行ではなかったのだろう。千賀はふところから二通の手紙を取り出した。一通は、故郷の父母から。もう一通は。


「……」

「……まあ、内容は後で一人で読んだらいいさ。簡単に言うと、帰ってきていいよ、っていう免罪符めんざいふだね」


 義真は「小山」の名が記された父母からの手紙を下に持ち、上に重ねた白い質素な便箋を撫でた。「榊原良三りょうぞう・イチ」。その文字を視線でなぞると、今もなお息が詰まる。智絵の生家からの手紙だった。


 言葉を失ったかのような義真の姿に、口ぶりの割に根は優しい千賀は、柔らかい口調で告げた。


「六年経って、榊原さんも気が落ち着いたんだろうさ。義真が帰省したいと言っていることを耳に挟んで、あの時の謝罪がしたい、と申し出があったらしいんだ」

「あの時」

「智絵さんの墓参り、させてもらえなかったんだろう?」


 智絵が亡くなった直後、宗克と共に里へ帰った。すでに葬儀は終わり、智絵は骨になって墓石の下にいた。線香をやりたかったが、榊原家の敷居は跨がせてもらえなかった。それでは墓参りを、と思ったのだが、柄杓ひしゃくで水を掛けられた玄関先で、もう二度と智絵に会いに来ないでくれと、釘を差されてしまった。


 もしかしたら、榊原の義父母の言葉は、最期の智絵の望みだったのかもしれない。だから義真はそれに従い、以降彼らとは関わりを持たなかった。それなのに今更、どうして。


「言っておくが、あんたが再婚したことも、榊原さんは知っている。その上で、もう時効だってことなんだろうさ。会って詫びたい。そう言ってたよ」

「だが、帰省にはきぬも連れて行く予定だ」

「あえて会わせる必要はないだろうが、あの小さな里のことだ。互いに知らぬ存ぜぬでは逆に気まずいだろ」


 千賀の言う通りである。きぬを里に連れて行ったことがないのは、行けば彼女を傷つけるかもしれないと思ったから。人口の少ない故郷では、噂は瞬時に広がるのだ。


 数か月前、きぬに「故郷へ来てくれ」と告げた。両親に会わせないことを宗克に咎められたため提案したのだが、彼女は予想外にも喜んだ。だが、きぬは智絵のことをよく知らない。何があって義真が里に帰らないのか、薄っすら察する程度だろう。


「……説明する必要がある」

「今更過ぎるね。物事は後回しにするともっと悪い方向に進むんだ」

「自業自得だねえ」


 追い打ちをかけるような千賀と、案外鋭い俊慶の言葉。深く胸に突き刺さるのだが、彼らは何一つ間違ってはいない。


 義真は二通の手紙を懐に仕舞い、欄干らんかんに寄りかかって地平線を眺める。遥か西の山々を、傾きかけた太陽が照らしている。あの緑のどこかの谷に、故郷の里があるだろう。


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