御上りさん、塔に上る


 大学の講義があったので義真は同行しなかったのだが、二日目にはきぬが千賀せんが俊慶しゅんけいを連れて町内を散歩したらしい。


 表立っては何の批難ひなんも浴びやしない。けれども天狗……しかも妙に声が大きな老女が居候いそうろうしている奄天堂えんてんどう家の様子に、近所の住民からは好奇の視線を向けられている。涼しい顔をして散歩などできる三人の心臓の強さに、驚いた。


 その翌日は週末である。義真はもとより、千賀らと行動を共にするつもりでいた。しかし宗克は勉学が忙しいと主張し、外出を遠慮する。その微かな抵抗も虚しく、千賀が強引に焚きつけたので、渋々余所行きに着替えた宗克を連れ、結局五人で奄天堂の門を出る。


 この日は葉月の十八日。この辺りの社寺しゃじ近辺では、文月ふみつき葉月はづきのうち日付に「八」が付く日には縁日を催す。


 屋台と人が集まる宵。本来の、祭祀という高潔な意味合いは薄れ、ただ祭りを楽しむものとして、民衆には浸透しつつある。


 千賀の要望にも含まれていたので、今宵は屋台を練り歩く予定だ。しかしそれまでの時間は手持ち無沙汰ぶさた。まずは日中、今流行りの電動昇降機とやらを見に行くことになった。喧騒は好まぬが、千賀が喜ぶのなら異存はない。


 義真をよく知らぬ者からは、この天狗は感情に乏しいだとか、何も考えていないだとか不名誉なことを言われるのだが、決してそのようなことはない。義真とて、遥々山から観光に来てくれた老夫婦を、何だかんだ言っても楽しませてやりたいものだ。


 そんな事情で五人は路面電車を乗り継いで、この辺り一帯で最も栄えた繁華街へと向かった。活動写真館や芝居小屋が立ち並ぶ通りには、興行こうぎょうのぼりが木々のように立ち並ぶ。路面電車の警笛けいてきを掻き消すほどの喧騒を作り出すのは、浮ついた足取りの老若男女。人間が多いが、天狗の姿もまばらにある。


 何と言っても田舎者の五人衆。皆がてんで異なる方向を仰ぎ見ているので、人波に吞まれて散り散りになりかねない。特にきぬは背丈が低いので、良く見てやらねば見失いそうである。


 幸い大きな事件もなく、目的地にたどり着く。その建造物の名は眺天閣ちょうてんかく。八角形のとてつもなく大きく高い塔である。


 最上層以外は赤煉瓦あかレンガ造りで、無数に硝子がらす窓が設けられ、夜になると、それらは淡く光を放つという。要所要所に設けられた展望露台てんぼうろだいでは、観光客が地平線を眺めている。


 道中、人の海や興行ののぼりの林の中であっても、眺天閣を遮るほどの高層建造物は一切なく、それは赤茶色い顔で義真らを見下ろしていた。堅牢だが、ある種優美さも兼ね備えたその建物に、五人は感嘆した。


「どうやって建てたんだろう」


 きぬが目を輝かせて言えば、宗克が答える。


「周囲に足場を渡して造っていくんですよ。眺天閣建設は高所での作業だったんで、天狗が活躍したそうです。ほら、万が一脚を踏み外しても、滑空したら怪我しないでしょう」


 鳶職とびしょくは天狗の天職である。便利な滑空能力はもちろんのこと、膂力りょりょくの面でも人間よりも適性がある。さらに天狗は一般的に、几帳面であると言われがちな人種。義真でさえ、ふすまの僅かな隙間すら気になることがあり、そういった性分は建築に携わるためには有利に働くのだろう。


 一行は門を抜け、切符売り場で案外高い入場料を払っていよいよ塔の中へ。千賀がしきりに見たがっていた電動昇降機は、塔の中央部を占領しており、その周囲には土産物屋が並ぶ。


 自由気ままな千賀はむしろ後者に心引かれたらしく、店頭を冷かして回った。付き合わされる恰好の俊慶は、不満一つ漏らさない。


 一方、中断してきた勉学がついつい思い出されるらしい宗克は、指折り何かを数えながら、外国単語を暗唱している。


 きぬはといえば、千賀につられて櫛屋を冷やかしてから白粉おしろい屋に入り、何やら難しい顔をしていた。欲しいのか、と問いかけようとしたのだが、不意に彼女はきびすを返し、二つ隣の煎餅屋の前に行って物欲し気にこちらを見上げた。


 珍しく女性らしい物を欲しがるかと思いきや、結局煎餅の香ばしい匂いにおびき寄せられていったきぬは、余所行きを纏っていても、いつもと何ら変わらない。


 三者三様の統制の利かぬ姿を見かね、義真は率先して電動昇降機乗り場に近づいた。気づいたきぬが、先ほど買ってやった煎餅を大事に抱えながら、寄り添って来る。その後ろを、脳内で参考書でも開いた様子の宗克が続く。


 宗克は、先日実施された小試験の結果が芳しくなく、切羽詰まった状況であるのだと聞いていた。学生の苦しみを身をもって知っている義真としては、弟を咎め立てする気は起きず、むしろ哀れみすら覚えた。


「あ、これが今話題の電動昇降機」


 無邪気なきぬの声に義真は、ああ、と頷いてから、千賀に視線を遣る。目が合えば、そろそろ店頭冷やかしに満足したらしい千賀は、義真からの無言の圧力を受けてやっと帰って来た。


「何々、え、また金取るのかい」


 乗り場横の券売所職員に聞こえてしまいそうな声量で言った千賀。先ほどから、諸々支払っているのは義真なのだから、目くじら立てる必要はないだろうと思う。


 上部から昇降機が戻って来る。まるで木材が悲鳴を上げるようなきしみと、機械が駆動する轟音が耳に痛い。大音量を好まないきぬが怯えやしないかと心配したのだが、杞憂だったらしい。彼女はただ目を丸くして、独りでに上下する木造の箱を見上げていた。


 それにしてもこの装置、強度は問題ないのだろうか。悲痛な軋みを聞く限り、いつかは床が抜けそうなのだが。


 まあ、運転が許可されているのだから、滅多なことはないだろう。五人は他の客と相乗りで軋む箱に乗り込んで、赤い布の張られた椅子に腰掛けた。ゆっくりと、それは上部へと向かう。


 あいにく窓の外は、ほとんどが壁面であり、目を楽しませるものは何もない。義真は、再び暗唱を始めた宗克を目の端で眺めながら、疎遠だった弟と肩を並べて観光をしているこの状況を感慨深く思った。

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