旅行者、毒を吐く

Ψ


 宗克むねかつが同居するようになったとはいえ、相変わらず奄天堂えんてんどう家の空気は静寂を纏う。それを打ち破るのは、近頃ではもっぱら近所の女学生、大迫澄おおさこすみであったのだが、今日は澄など比にならぬほどのかしましさを引き連れて、彼らはやって来た。


義真ぎしん、きぬ! 来たよ!」


 義真は思わず眉根を寄せ、きぬはいつになく俊敏な動作で、腰を上げる。


千賀せんがさんたちだ!」


 顔中に満面の笑みを浮かべ、玄関へと小走りで向かう。お客様が来る日だから、と鮮やかな紅色の着物を纏ったきぬ。薄っすらと格子柄が浮かぶ袖が、障子の向こうに消えるのを目で追った。


 宗克が「良く似合う」と褒めれば、照れて笑う姿が愛おしい。その思いが口はおろか、顔色一つにも出ない己の性分がうとましくもあるが、こればかりはどうしようもない。


 玄関であれやこれやとまくし立てる声がして、きぬの笑い声が混じるのを、義真は茶の間に座したまま聞いた。葉月はづきの灼熱の陽光を浴び、庭の柿の葉もうんざりしているようだった。


「だいぶ賑やかな人なんだな」


 宗克が耳打ちし、義真は頷く。宗克は千賀と俊慶しゅんけいに会うのは初めてである。きぬの昔語りに頻繁に登場するため、宗克はよく、「知らない人とは思えない」と言ったが、千賀から飛び出す啄木鳥きつつきのような言葉の弾丸は、想像以上だったようだ。


「義真さん、宗克さん、お二人が来てくださったよ」


 旅行者天狗の老夫妻を客間に通した後で、きぬは障子の角から首から上を覗かせて、こちらに微笑んだ。宗克が腰を上げたので、義真もやや遅れて本を置いた。


 客間では千賀が、早くもくつろいだ様子で片足を伸ばして座していた。隣に座る俊慶は対照的に行儀よく座布団の上に収まっている。一見傍若無人ぼうじゃくぶじんにさえ映る千賀の姿に、宗克は戸惑ったらしい。その気配を察したきぬが、いつもののんびりとした口調で言う。


「千賀さんはね、膝を痛めていらっしゃるの。こんな遠くまで来てくれて、ありがとうございます」


 ああ、それで、と宗克が腑に落ちたように頷くのだが、きぬのさり気ない気遣いを察することなく、千賀は毒を吐く。


「ほんと難儀なんぎしたよ。人間の街は平坦過ぎるね。どうしてこうも高低差がないんだ。滑空する場所がないじゃないか。脚が悪い人間のジジババは、どうやって過ごしてるんだよ」

「車椅子とか、杖を使う方が多いと思います」

「面倒なことだね!」


 鼻を鳴らして言ってから、何の脈絡もなく宗克に視線を向ける千賀。柄にもなく宗克はたじろいだようだった。


「で、あんたが義真の弟かい」

「あ、はい。小山宗克です。兄と義姉がお世話になったようで」

「あたしは飛奧坂ひおうざか千賀。これは旦那の俊慶。まあ何だ、義真の弟だなんて大変だねえ」

「ええ、まあ……」


 さすがに返答にきゅうした様子の宗克。このまま放っておけば、千賀は延々と毒霧を撒き散らし続けそうだ。義真はやっと言葉を発した。


「それで、旅程は」


 訊いてみれば、案外几帳面なたちの千賀は、ふところから年季の入った革の手帳を取り出して、目を細めつつページを捲る。おそらく、老眼なのだろう。目当ての頁が開くと、いっそう視界を細くして、千賀は答えた。


「まずはね、人間の街で流行っているハイカラなものが食べたいね。洋食かな。あとは、夏祭りにも行ってみたい。それと、島国一高い眺望用の塔があるだろ、なんてやつだけ、自動で上まで上がれるらしいし」

「電動式昇降機エレベーター

「そうそれ」


 なるほど、ただ純粋に観光に来ただけだったのか。突然の来訪申し出だったので、何か裏があるのではないかと勘繰かんぐったのだが、杞憂だったらしい。


 ……いや、本当にそうだろうか。改めて思案してみたのだが、千賀の行動は常に突拍子ないので、その行動の背景を探ることなど、無意味であるようにも思えて早々に止めた。


 その晩は千賀の要望通り、街の洋食屋に出かけた。煉瓦レンガ造りの洋風建築で、内装は下が煉瓦、上は漆喰しっくいで固められている。その壁一面に貼られたお品書きは、店内に充満する油で劣化したのか、やや黄ばんでいるのだが読めないほどではない。コロッケ、トンカツ、ライスカレー、オムライス。おでん、てんぷら、そば、煮付、そして……焼き鳥。なんとも節操のない店である。


 義真はもちろん、きぬも宗克も俊慶も、店主の手前、お品書きへの感想など口にはしなかったのだが、案の定千賀は「ごちゃごちゃとして騒がしい店だね」などと口走っていた。


 一番やかましいのは千賀だろうと思う。表情を掠め見た限り、宗克も同じようなことを感じていた様子だ。一方、きぬと俊慶はいつもの通り、ただにこにこと笑っていた。


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