道場破りのように

 矢渡やわたり家に向かったのは、義真と宗克の二人である。さすがに園田と澄をこれ以上巻き込むのも気が引けるし、そもそも大所帯で押しかけることに利があるとは思えなかった。


 その町は、義真が暮らしていた山小屋と距離的に近い、山間部に位置していた。田舎町ではあるのだが、天狗の姿はない。共存地域ではないらしい。


 鉄道網が発達し始めたこの時代。むしろ都会の人間の方が、天狗に慣れ始めているようだった。この町にはきっと、天狗の客人などめったに来ないのだろう。義真の姿は人目を引くものであり、あからさまな好奇と、時には侮蔑じみた視線を浴びることになった。人嫌いの義真としては別に、他人にどう思われようが気にはならないが。


 二人は汽車を降り、道行く人々に屋敷の場所を聞き込みながら、徒歩で向かう。矢渡家は広大な敷地に相応ふさわしく、門口かどぐちも幅広である。乗り越えることなど不可能であろうほど高い竹垣の隙間から、広々とした砂地が覗く。晒し場、というやつだろう。職人と思しき男らが、汗を流して仕事に励んでいる。


「あの、すみません」


 宗克の声は屋敷内の誰にも届かなかったようだ。無理もない。気弱でか細い声である。


「もう少し声を張れ」


 言ってやれば、宗克は鏡玉レンズの下でぎろりと義真を睨みつけた。


「じゃあ兄貴がやれよ」


 義真の声は遠くまで通らぬのだ。こういった場面、どちらが適任であるか、火を見るよりも明らかである。目顔で訴えてみれば、さすがは弟。義真の思考を読んだかのように奴は悪態を吐いた。


「このくそ兄貴……。ええい、もう! たのもーー!」


 まるで道場破りである。滑稽な様子ではあったが、さすがにこの絶叫は、敷地内にも反響する。腹掛けと股引き姿の男らが、数名怪訝そうにこちらに顔を向けた。やがて、水仕事を中断してきたとおぼしき様子で指先から水滴を払いつつ、長身の女中が姿を現す。女中は天狗の翼を一瞥してから、誰何すいかする。


「どちら様でしょう」

「俺は、小山宗克と言います。こちらは奄天堂義真。きぬさん……いえ、季糸さんに会わせていただきたい!」


 何の捻りもない直球勝負に不安を覚えるが、下手に芝居を打っても逆効果であろう。義真は黙って成り行きに身を任せる。女中は宗克と義真の顔を二往復ほど視線でなぞってから、小さく首を横に振る。


「あいにく、できかねます」


 それはそうだろう。この屋敷に暮らすのは、突如奄天堂家に押しかけて、有無を言わさずきぬを連れ去った者どもである。「会わせろ」と言われ「はいどうぞ」とはならぬはず。しかし、続く女中の言葉に、義真らは絶句することになる。


「すでに、あなた方が連れ去ったのでは?」

「え?」


 女中は紺色の前掛けで手を拭い、顔を顰めた。


「屋敷中、大騒ぎです。若奥様が、綾子お嬢様を連れて出奔されたのですから」

「な……出奔って、どこに!」

「そればわからぬから騒いでいるのです。てっきりあなた方の所だと思っていたのですが」

「知りませんよ! ここに向かう途中もすれ違いはしなかった。なあ、兄貴」


 話を振られ、義真は頷く。きぬが出奔した。それほどこの家が好ましくなかったのだろうか。義真の元に帰ろうとしたのだろうか。場違いにも、心の奥底にほのかな熱が芽生えたけれど、きぬの安否は不明なのだ。そのことに思い至れば途端に、背筋が冷える。


「この町から出るならば、谷に下りて鉄道を使うしかないだろう」


 動揺していても埒が明かない。義真は冷静に分析をする。


「きぬは乗車賃を持っているのだろうか」


 女中は首を横に振る。


「いいえ、自由になるお金はお持ちではありません」


 奄天堂家を出る際に貨幣を持っていたかは定かでないが、少なくとも、長距離を移動するだけの資金は持ち出していなかったはずだ。


 義真は眉間に皺を寄せて思案する。徒歩で帝都近郊に向かうのは正気の沙汰ではない。記憶の戻らぬきぬは、この町に親しい知り合いもいないだろうから、他人を頼ったとも思えない。いわゆる縁切り寺は、ひと昔前に存在感を失ったし、それなら一体どこへ……。


 脳裏に、宗克が持ち帰ってきた新聞の紙面が浮かぶ。記事に載っていた土砂崩れに、きぬは巻き込まれたのだろう。そしてあの雷雨の日。義真はきぬと出会った。隣山には、お喋り天狗の千賀せんがの家がある。きぬがここで頼ることの出来る他人はといえば、きっと。


「おい!」


 不意に、屋敷内から怒声が飛び出した。矢渡聡一である。聡一は端正な顔立ちを惜しげもなく歪め、こちらに詰め寄る。義真の胸倉を乱暴に掴み、唾を飛ばしつつ詰問する。


「お前、季糸をどこへやった」


 正面から睨みつけられ、怒りに思わず拳が出そうになるのだが、辛うじて激情を押し止め、義真の衿を掴む聡一の手首を強く握った。


「どこへもやっていない。だが、どこに行ったかはわかる。お前にはわからないだろうが」


 聡一の指を無理やり開かせて、投げ捨てるように払い除ける。義真は軽く衿を正し、宗克を促した。


「行くぞ」

「え、どこへ」


 義真は答えず、きびすを返す。宗克が慌ただしく背中を追う気配がしたけれど、聡一に引き留められたらしく、ひと悶着起きそうだったので、義真は仕方なく肩越しに振り返り呼び付ける。


「矢渡」


 低い声音に、聡一は一切の動きを止めたらしかった。義真は短く言い放つ。


「家で大人しく母親にでも泣きついていろ。だが、ついてくるというのなら、丈夫で長い縄を持って来い」


 それから一切振り返ることはない。しばらく行ったところで、慌ただしい足音がしたので、聡一が素直に縄を持参してやってきたと知った。義真としてはどちらでも構わない。心はすでに、きぬの元にある。

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