悪事、暴いたり

Ψ


「やっと眠った……」


 きぬは脈打つような痛みを堪えつつ、安堵の吐息を漏らした。縞柄の素朴な銘仙めいせん着物の上、胸に巻き付けた薄布の下で、綾子が寝息を立てている。


 周囲は一面の緑に囲まれて、風が吹けば暖かな木漏れ日が優しく揺れる。樹上では小鳥が可愛らしく鳴き交わし、きぬの側を、頬を膨らませた栗鼠りすが駆け抜ける。昼寝でもしたいくらいの長閑のどかな様子であったが、状況はかなりまずい。きぬは二年振りに、崖から滑落かつらくしてしまった。


 最初は頑丈そうな枝に縄を括り付け、慎重に斜面を下ったのだが、足場は盤石ばんじゃくとは言い難い。一度足を踏み外した拍子に、縄を手放してしまい、転がるように崖下まで転落してしまった。


 幸い、すでに半分以上は下っていたのと、身体を丸めて滑り落ちたため、胸に抱いていた綾子には、怪我一つない。けれども幼子のこと。恐ろしい衝撃に恐怖して、大泣きを始めてしまったのである。必死にあやすことしばし。泣き疲れた綾子がやっと眠りについて、今に至る。


 綾子が落ち着いた頃合いで活動を開始しようとするのだが、足首を痛めたらしく、長距離歩ける予感はしない。また、身体中に草や枝で切ってしまったらしい細かな傷を負っているし、打ち付けた頭が微かに痛む。


 試しに立ち上がり、数歩脚を進めてみる。途端に足首に激痛が走り、涙すら湧きだして来る。きぬは歩いては止まり、歩いては止まりを繰り返し、やがて心折れてしゃがみ込む。木の幹に背中を預け、情けなくも目の縁に溜まった涙を拳で拭った。


 斜面を下れば、義真と出会った山道に辿り着くのだと思っていた。何て短絡的だったのだろう。いざ下りてみても、辺りの光景はあの日とは大きく異なる。


 二年前、きぬが力尽きていた場所は、舗装こそされていないものの、人に踏み固められた道であった。けれどもここは、どう見ても樹海である。獣道すら見えない。このまま日が暮れて、野宿にでもなってしまえば、腹を空かせた獣に襲われないとも限らない。しかもきぬは、綾子を連れ出してしまった。この子を凄惨な事件に巻き込むなど、言語道断だ。


「どうしよう」


 思わず呟きが漏れる。言葉は木々の間に吸い込まれ、誰に届くこともない。きぬははなを啜りながら、もう一度涙を拭う。


 矢渡家を抜け出したのは、過ちだった。逃げるにしても、もっと緻密な計画を練った上で、危険がないように実行をするべきだった。


 それなのに、あの化粧部屋で目にした光景が脳裏に焼き付き、聡一が言い訳のように語る言葉が腹落ちすれば、居ても立っても居られなかった。この出奔は、自分でも恥ずかしくなるほど、衝動的な行動である。


 綾子を連れて来てしまったのは、なぜだろうか。子守りを押し付けられた女中のあいが、困惑気にしていたからだろうか。それとも、我が子への愛情が歪んだ結果だろうか。愛ゆえの行動であるならば、きぬは母親失格である。一方で、きぬに置いていかれた綾子がどれほど傷つくだろうかと考えてみれば、もはや何が正解なのかわからないのだ。


 どこかで鴉が鳴いた。陽射しが斜めに傾ぎだしている。だいぶ日が延びた時期とは言え、宵闇は日に一度、等しく訪れるのである。このままでは本当に遭難してしまう。途方に暮れてさめざめと涙を流してみても、何も起こらないのだ。

 

 きぬはとうとう四つん這いで、来た道を引き返し始める。縄を頼りに斜面を登り、素直に矢渡家に帰ろう。綾子を無事送り届け、その後は聡一の判断に沿って、従順に暮らして行こう。


 どんな人生でも、死ぬよりはましである。きぬは未だ生きることを諦めてはいなかった。生きて居さえすれば、もしかするとまた義真たちと会えるかもしれない。それはずっと先のことになるかもしれないけれど、いつかはきっと……。


 不意に、きぬの耳に、木々が激しく揺れる音が届く。息を吞み、身体が硬直する。風の騒めきではない。動物が木立をかき分けて、茂みを引き裂きつつ向かってくるような異音である。


 耳を澄ませば、それは斜面の方から発せられている。きぬは躊躇する。道を引き返せば、獣か何かが潜む茂みに自ら足を踏み入れてしまうかもしれない。


「うう……」


 恐怖に呻いた時だった。微風がきぬの頬を撫でる。次いで、鳥の羽ばたきが鼓膜を揺らした。視線を上げて、きぬは絶句する。そして。


「むぐ」


 気づけば温かな温もりに包み込まれていた。懐かしい体温と香り。きぬは何者かに遮られて暗転した視界の中で、震えを孕んだ声を聞いた。



 そう、季糸はきぬなのだ。その名を呼ばれることを、これほどまで切望したことがあっただろうか。きぬは、腕を伸ばして手探りで、柔らかな羽毛を探しあてる。その付け根辺り。天狗の翼が着物から覗く辺りに指を添わせた。


「義真さん」


 呼べば小さく身体を震わせて、きぬを抱き締める腕が緩む。きぬは顔を上げて、愛おしい射干玉ぬばたまの瞳を見つめた。それは最後に目にした日よりも、ずっと温かな情を宿していた。


「本当に、義真さん?」


 天狗は、「ああ」と囁く。


「どうしてここに」

「きぬこそ、なぜ森に」

「それは」


 きぬは言い淀んだが、義真の真っすぐな眼差しに促されて、言葉は自然と溢れ出た。


「あなたに、会いたかったの」


 季糸としての人生があるのなら、とんだ不貞者である。ましてやこの胸には、綾子を抱いているのだ。化粧部屋で見た光景や、そこで耳にした、聡一がきぬを呼び戻した経緯などとは比べものにならないほどの不義である。それでも、言葉は止まらない。


「会いたかったんだよ。帰りたいの。あのお家に」


 義真の指先が、きぬの頬を撫でる。指先で弾かれた涙が陽光に煌めくのを目にして初めて、幼子のように泣きじゃくっていることに気づいた。義真はいつも通り、平坦だけれど優しい声音で答えた。


「帰ろう」


 たった一言である。その短い言葉に、世界が一段明るくなったかのような心地を覚えた。どこか靄がかかり、暗くくすんでいた景色が、一転して輝きを取り戻す。感極まって、もう一度義真の胸に縋りつこうとした時。


「ふえ」


 胸元で、綾子が声を上げた。目覚めてしまったようである。こうも騒がしくされれば、無理もない。眠気冷めやらぬ中、綾子はぐずり始める。人嫌いの義真はもちろん幼子も得意ではないらしく、やや身を引いた。きぬとて、子供の世話が得意と言う訳でもないのである。


 しどろもどろになりつつ薄布を剥ぎ、綾子を腕に抱え直して揺らしてみるのだが、大泣きの数秒前、といった様子である。


「綾子、ほら、ふわふわですよ」


 苦し紛れに義真の翼を無理矢理引き寄せて鼻先にちらつかせてみたのだが、その甲斐もなく、綾子の顔は次第に歪み、とうとう大きな声を上げ始めた。


「うわあああん。おとうさん! おとうさん!」


 樹海に響く大声に、鳥が枝から飛び去る気配。そして、助け舟は予期せぬ場所から現れた。


「綾子!」


 半ば滑り下りるような恰好で、縄を伝って斜面の茂みから現れたのは、聡一だった。きぬの隣に膝を突き、ひったくるかのような勢いで綾子を奪うと、強く抱きしめる。


「綾子、もう大丈夫、大丈夫だよ」


 幼子の背中を優しく撫でながら囁く聡一を見て、きぬは罪悪感に打ちひしがれる。綾子を危険に晒してしまった罪を、改めて実感したのである。


「聡一さん、あの」

「いーやー! お、とうしゃ……おとうさんがいいー!」

「ほら、ぱぱですよ」


 金切り声を耳にし、混乱しているのだろうと思った。綾子は今、彼女が求めている父親の腕の中にいるのだから。けれども、きぬの言葉に、聡一は何やら顔を曇らせる。気のせいかとも思ったが、どうにも腑に落ちない。困惑を打ち砕いたのは、次に斜面を下って来た青年の声だった。


「ああ、やっぱり」


 小柄な青年の姿に、きぬは目を丸くする。


「宗克さん」

「やあ、義姉さん。怪我しているけど元気そうでよかった。それと」


 宗克は聡一に向かって、無遠慮に人差し指を突きつける。それから、妙に気取った調子で言うのである。


「矢渡聡一! お前の悪事、暴いたり!」


 いったい何のことだろう。目を白黒させるきぬは、続く宗克の言葉に耳を疑うことになる。



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