奄天堂きぬ
「事の始まりは三年前。
宗克は、
「聡一は、
――楓木家は北方の町で
楓木家の長女であった季糸は、幼少の頃、花火師であった祖父の家で事故に遭う。背中に大火傷を負ったことにより彼女もまた、嫁ぎ先探しの困難な女であった。仲人としては、難しい男女同士、良縁だと思ったに違いない。二人は見合いで意気投合をした……のかはわからぬが、事情も手伝ってか、晴れて
そう、矢渡聡一には愛した女がいた。それは許されるはずのない愛。だって、その相手は……実の母親であるのだから。
「母親!」
きぬの脳裏に、化粧部屋で目にした光景が蘇る。聡一と共にいたのは彼の実母であった。聡一は母の膝の上に頭を乗せて、鼻の下を伸ばしながら耳かきをしてもらっていたのである。いい歳した大人が。
その場できぬも、聡一からある程度、言い訳じみた説明を受けていた。だが、改めて耳にすれば絶句を通り越して絶叫してしまう。
「許されるはずのない愛!」
「可笑しな言い方はやめてくれ!」
口を挟んだのは聡一である。
「確かに母を愛している。だがそれはいわゆる男女の愛ではない!」
「そんなことわかってますよ。良いから黙って聞いてください」
宗克の一喝で、聡一はしゅんと黙り込む。宗克は咳払いをして、続けた。
――いつもぼんやりとしている季糸だったが、聡一の母に対する異様な愛に気づくのは時間の問題であった。そして、多分色々あって二人は仲互いして、離縁の流れになる。たった半年足らずの夫婦生活であった。
そして、あの日。あの豪雨の日。なんか多分色々あって、季糸は崖崩れに巻き込まれ、そのまま死んだものとして扱われたのである。
「ここまでが、
「すごく適当だね」
「だって義姉さん、園田さんにわかるのは、役所に届けられている情報と、近所の
――死んだはずだった季糸が、とある天狗の家で暮らしていることを知った聡一。なぜだか理由は知らないけれど、季糸を取り戻したくなった彼は、策を練る。『よし、迎えに行こう。で、その時断りづらいように、綾子を連れて行こう。綾子は幼く状況がわからぬだろうから、実子であるということにして』……。
「実子であるということに?」
きぬは思わず声を上げる。聡一に目を向ければ、はっきりと視線を逸らされる。それが答えのようなものだった。
――結果、天狗一家をまんまと騙しおおせた聡一は、季糸を連れ帰り、元通りの生活に戻ることができたのである。
「とまあ、こんな感じでしょう、聡一さん」
語り口はともかく、内容は何とも綻びだらけである。けれども言い当てられた聡一は、顔面蒼白で打ち震えている。
「観念してください、聡一さん。あなたの口から、きちんと説明してください」
「なぜ……言わないといけないのか」
「言いたくないのなら、矢渡の若旦那様の性癖を、なりふり構わず
「鬼畜だ!」
「何とでも言ってください。あなたが義姉さんにしたことも、非道です」
ぴしゃりと言い切られ、聡一は反駁することができなかったようだ。泣き疲れて大人しくなった綾子の背中を撫でながら、聡一は不承不承口を開いた。
「彼の話は、概ね間違っていない。綾子は俺たちの姪だ。生まれたばかりの頃に実の母親が出奔し、俺の弟である父親が育てているが、商売のため家を空けることが多いから、時々本家に預けられているんだ」
どうりで、と納得する。綾子は異常なほど人見知りをしない子だと思っていたが、普段から実の親以外の大人に預けられて過ごしてきたがゆえ、物怖じしない性格に育っているのだろう。
「でも、綾子は私のことを『まま』って」
「季糸の名前を『まま』だと教えたんだ。綾子には母親がいない。だから、この子の中に『まま』という言葉は存在しなかった」
子供に対し、何て酷いことを。
淡々と告げる聡一だが、さすがに少しは胸を痛めているらしい。表情が険しかった。
「季糸を取り戻したかったのは……お前に化粧部屋で告げた通りの理由だ」
きぬは頷く。此度の出奔の原因となった事件である。問うような視線を向けられて、きぬは不本意ながら口を開く。
「今まで縁談があった女性は皆、話が進むうちに聡一さんの性癖を察して逃げて行ったんだって。でも私だけは全然気づかないで祝言を挙げた。でも、毎日一緒に暮らしていたらさすがに分かるよね。記憶を失くす前の私、聡一さんに『お義母さんと私、どっちが大切なの』って訊いたんだって。そしたら『母さんだ』って言われたから大喧嘩して、聡一さんも怒って即離縁。その時の私、少しでも早く実家に帰りたかったみたいなんだ。豪雨も気にせず谷の駅に向かおうとして、それでね」
崖崩れに巻き込まれ、義真に出会った。
「死んだとなれば少しは悲しみはしたけれど、離縁したのだから、すでに他人だもの。聡一さんもすぐに捜索は諦めたんだって。でも、そうなると今度は別の奥さんを探さないと。聡一さんは矢渡本家の跡取りだから。でも、性癖のせいで全く縁談が進まなくて」
「他人だと言うが、それは違う。最後こそ衝動的に仲互いをしたが、季糸のことは好いていた」
聡一は真摯な眼差しで続ける。
「それに、季糸は従順だろう。だから、きちんと話せば母のことも受け入れると思った」
聡一の言葉に、義真が珍しく口を挟んだ。
「従順だと? きぬを物のように扱うな」
聡一は小さく肩を竦めただけで答えなかった。代わりに、綾子の背中を撫でながら、きぬに向き直る。
「季糸」
改まった調子に、自然ときぬの背筋が伸びる。
「すまなかった。俺が全て悪かった。母のことは……多分生涯大事だろうけれど、お前のことも大切にしたい。だから、戻って来てくれないか」
想定外に誠実な調子に、きぬは言葉を失う。義真も宗克も、何も言わなかった。きぬは、義真の瞳を覗き込む。あの日の冷酷さはもう消え失せていた。
この二年間、楽しいことも辛いこともあったけれど、いつだって義真が隣にいた。宗克や聡一の語る過去を聞いても、記憶は一欠片も戻らない。きぬの人生の全ては、この二年間だけ。そして、これから続く未来にはきっと、義真がいるはずだ。
きぬは聡一の瞳を見上げ、答えた。
「聡一さん、ごめんなさい。矢渡季糸は、もう死んでしまいました。私はきぬ。
聡一は虚を突かれたような顔をした後、しばしの間を置いてから不意に頬を緩めた。全て吹っ切れたような、爽やかな微笑みだった。
「そうか。……きぬさん、迷惑をかけたな」
きぬは小さく首を振る。胸の隅がちくりと針で刺されたかのように痛んだけれど、それも束の間のことだった。
死んでしまった季糸の心が、少しだけ痛んだのだろう。彼女は聡一を好いていたのかもしれないが、きぬが愛する者は、他にいる。きぬは、隣で風に揺れる
奄天堂きぬとして、生きていく。今日も明日も、何十年先だって。きぬはこの日、もう一度生まれ直したかのような心地になった。
第八話 終
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