奄天堂きぬ

「事の始まりは三年前。矢渡やわたり聡一そういちの縁談が、それはもう悲しいくらいにことごとく打ち砕かれていた頃」


 宗克は、活動弁士かつどうべんしさながらの口調で、語り出す。


「聡一は、楓木かえでぎ季糸きいと言う女と出会う。職人仲間のつてを使った縁談である……」


 ――楓木家は北方の町で指物さしもの職人として名をなしている一族である。楓木の家具や小物は精緻な作りで評判を得ていたが、精密過ぎるがゆえに製作数には限りがあり、市場にはほとんど出回らない高価な品であった。その作品には全てにおいて、抱き楓の紋が彫り込まれている。きぬが持っていた巾着の柄と同じ。見様によっては、広げられた双翼そうよくのようにも映る意匠である。


 楓木家の長女であった季糸は、幼少の頃、花火師であった祖父の家で事故に遭う。背中に大火傷を負ったことにより彼女もまた、嫁ぎ先探しの困難な女であった。仲人としては、難しい男女同士、良縁だと思ったに違いない。二人は見合いで意気投合をした……のかはわからぬが、事情も手伝ってか、晴れて祝言しゅうげんを挙げることとなる。けれども聡一には、大きな秘密があったのだ。


 そう、矢渡聡一には愛した女がいた。それは許されるはずのない愛。だって、その相手は……実の母親であるのだから。


「母親!」


 きぬの脳裏に、化粧部屋で目にした光景が蘇る。聡一と共にいたのは彼の実母であった。聡一は母の膝の上に頭を乗せて、鼻の下を伸ばしながら耳かきをしてもらっていたのである。いい歳した大人が。


 その場できぬも、聡一からある程度、言い訳じみた説明を受けていた。だが、改めて耳にすれば絶句を通り越して絶叫してしまう。


「許されるはずのない愛!」

「可笑しな言い方はやめてくれ!」


 口を挟んだのは聡一である。


「確かに母を愛している。だがそれはいわゆる男女の愛ではない!」

「そんなことわかってますよ。良いから黙って聞いてください」


 宗克の一喝で、聡一はしゅんと黙り込む。宗克は咳払いをして、続けた。


 ――いつもぼんやりとしている季糸だったが、聡一の母に対する異様な愛に気づくのは時間の問題であった。そして、多分色々あって二人は仲互いして、離縁の流れになる。たった半年足らずの夫婦生活であった。


 そして、あの日。あの豪雨の日。なんか多分色々あって、季糸は崖崩れに巻き込まれ、そのまま死んだものとして扱われたのである。


「ここまでが、園田そのださんが推察を交えつつ、人脈と職権を駆使して調べ上げた事実である」

「すごく適当だね」

「だって義姉さん、園田さんにわかるのは、役所に届けられている情報と、近所の四方山よもやま話だけなんです。……で、そのまま二年の月日が経ち」


 ――死んだはずだった季糸が、とある天狗の家で暮らしていることを知った聡一。なぜだか理由は知らないけれど、季糸を取り戻したくなった彼は、策を練る。『よし、迎えに行こう。で、その時断りづらいように、綾子を連れて行こう。綾子は幼く状況がわからぬだろうから、実子であるということにして』……。


「実子であるということに?」


 きぬは思わず声を上げる。聡一に目を向ければ、はっきりと視線を逸らされる。それが答えのようなものだった。


 ――結果、天狗一家をまんまと騙しおおせた聡一は、季糸を連れ帰り、元通りの生活に戻ることができたのである。


「とまあ、こんな感じでしょう、聡一さん」


 語り口はともかく、内容は何とも綻びだらけである。けれども言い当てられた聡一は、顔面蒼白で打ち震えている。


「観念してください、聡一さん。あなたの口から、きちんと説明してください」

「なぜ……言わないといけないのか」

「言いたくないのなら、矢渡の若旦那様の性癖を、なりふり構わず吹聴ふいちょうしますよ」

「鬼畜だ!」

「何とでも言ってください。あなたが義姉さんにしたことも、非道です」


 ぴしゃりと言い切られ、聡一は反駁することができなかったようだ。泣き疲れて大人しくなった綾子の背中を撫でながら、聡一は不承不承口を開いた。


「彼の話は、概ね間違っていない。綾子は俺たちの姪だ。生まれたばかりの頃に実の母親が出奔し、俺の弟である父親が育てているが、商売のため家を空けることが多いから、時々本家に預けられているんだ」


 どうりで、と納得する。綾子は異常なほど人見知りをしない子だと思っていたが、普段から実の親以外の大人に預けられて過ごしてきたがゆえ、物怖じしない性格に育っているのだろう。


「でも、綾子は私のことを『まま』って」

「季糸の名前を『まま』だと教えたんだ。綾子には母親がいない。だから、この子の中に『まま』という言葉は存在しなかった」


 子供に対し、何て酷いことを。


 淡々と告げる聡一だが、さすがに少しは胸を痛めているらしい。表情が険しかった。


「季糸を取り戻したかったのは……お前に化粧部屋で告げた通りの理由だ」


 きぬは頷く。此度の出奔の原因となった事件である。問うような視線を向けられて、きぬは不本意ながら口を開く。


「今まで縁談があった女性は皆、話が進むうちに聡一さんの性癖を察して逃げて行ったんだって。でも私だけは全然気づかないで祝言を挙げた。でも、毎日一緒に暮らしていたらさすがに分かるよね。記憶を失くす前の私、聡一さんに『お義母さんと私、どっちが大切なの』って訊いたんだって。そしたら『母さんだ』って言われたから大喧嘩して、聡一さんも怒って即離縁。その時の私、少しでも早く実家に帰りたかったみたいなんだ。豪雨も気にせず谷の駅に向かおうとして、それでね」


 崖崩れに巻き込まれ、義真に出会った。


「死んだとなれば少しは悲しみはしたけれど、離縁したのだから、すでに他人だもの。聡一さんもすぐに捜索は諦めたんだって。でも、そうなると今度は別の奥さんを探さないと。聡一さんは矢渡本家の跡取りだから。でも、性癖のせいで全く縁談が進まなくて」

「他人だと言うが、それは違う。最後こそ衝動的に仲互いをしたが、季糸のことは好いていた」


 聡一は真摯な眼差しで続ける。


「それに、季糸は従順だろう。だから、きちんと話せば母のことも受け入れると思った」


 聡一の言葉に、義真が珍しく口を挟んだ。


「従順だと? きぬを物のように扱うな」


 聡一は小さく肩を竦めただけで答えなかった。代わりに、綾子の背中を撫でながら、きぬに向き直る。


「季糸」


 改まった調子に、自然ときぬの背筋が伸びる。


「すまなかった。俺が全て悪かった。母のことは……多分生涯大事だろうけれど、お前のことも大切にしたい。だから、戻って来てくれないか」


 想定外に誠実な調子に、きぬは言葉を失う。義真も宗克も、何も言わなかった。きぬは、義真の瞳を覗き込む。あの日の冷酷さはもう消え失せていた。


 この二年間、楽しいことも辛いこともあったけれど、いつだって義真が隣にいた。宗克や聡一の語る過去を聞いても、記憶は一欠片も戻らない。きぬの人生の全ては、この二年間だけ。そして、これから続く未来にはきっと、義真がいるはずだ。


 きぬは聡一の瞳を見上げ、答えた。


「聡一さん、ごめんなさい。矢渡季糸は、もう死んでしまいました。私はきぬ。奄天堂えんてんどうきぬなの」


 聡一は虚を突かれたような顔をした後、しばしの間を置いてから不意に頬を緩めた。全て吹っ切れたような、爽やかな微笑みだった。


「そうか。……、迷惑をかけたな」


 きぬは小さく首を振る。胸の隅がちくりと針で刺されたかのように痛んだけれど、それも束の間のことだった。


 死んでしまった季糸の心が、少しだけ痛んだのだろう。彼女は聡一を好いていたのかもしれないが、きぬが愛する者は、他にいる。きぬは、隣で風に揺れる勝色かついろの翼にそっと触れた。


 奄天堂きぬとして、生きていく。今日も明日も、何十年先だって。きぬはこの日、もう一度生まれ直したかのような心地になった。



第八話 終

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