突撃前夜

Ψ


 この日も、半ば強引に書斎の扉が開かれた。室内には先日と同じ面々。義真ぎしんの他には、宗克むねかつ園田そのだすみである。


「はい、これ」


 宗克が、青年にしては薄い胸板をこれでもかと突き出して、卓上へ自慢げに紙の束を叩きつける。視線を遣れば、それは新聞である。意図を目で問うと、弟はいっそう鼻高々な様子。鼻が長いと誤解をされがちな天狗を前にして、何とも挑戦的なことである。


「新聞だよ。義姉さんが失踪した時期の事件を調べた」


 ミルクホールに通って毎日牛乳珈琲ミルクコーヒーをがぶ飲みし、店主と懇意になった宗克。折を見て頼み込み、倉庫の奥底に眠る二年前の新聞を引っ張り出してもらったのだという。宗克は何枚かの紙面を抜き取り、義真の眼前に突きつけた。


「兄貴が義姉さんをの、このくらいの時期だろ。あの山の近くの事件を調べたら……ほらこれ」


 義真は視線で文字を辿る。なるほど、約二年前。各地で災害を引き起こした豪雨の記事がある。ちょうどきぬを保護した時期である。当時は山崩れや落石で比較的大規模な被害が発生して、大騒動になっていたと記憶している。


 宗克は紙面の文字列の中から、ある一文を探しだし、指先でなぞりつつ朗読する。


「ほら、犠牲者名。『……遺体は出なかったものの……矢渡季糸(二十二)』。二年前に二十二歳ってことは、義姉さん俺と一つ違いだったのか」


 今はそのようなこと、どうだって良いだろう。義真の冷たい視線など意に介さぬ宗克は、呑気に続ける。


「義姉さん、今年二十七歳ってことになってるよな。三歳も逆に鯖読んでる」

「先生、若い奥様で良かったですねえ」


 同室していた園田が間延びした声音で言う。別にきぬが少女だろうと熟女だろうと構わないのだが、確かに彼女は童顔だとは思っていた。そもそも、戸籍を得た時に二十五としたのは、この年齢以上でないと家長の許可ない婚姻が面倒だったからである。


「それで、ほらここ。土砂崩れの現場は兄貴が住んでいた山の近くの町。きっと義姉さんは事故に遭ってそのまま兄貴と出会ったんだろう」


 なるほど、それならば出会った日のきぬの怪我や、綻びだらけの着物姿にも納得がいく。だが。


「それで、この記事が何の役に立つ」

「何って。矢渡やわたり家の場所がわかるじゃないか」


 さも当然のように言った宗克。義真はやや眉間に皺を寄せ、弟の言葉に耳を傾ける。


「矢渡家は木蝋もくろう生産で一旗あげた、有名な成金なりきん一族だよ。で、あの男は本家の若旦那様だろ。町名さえわかれば家を探し出すことくらい朝飯前だ」

「行ってどうする」

「どうって、もちろん義姉さんを連れ戻すんだよ!」


 宗克が髪を搔き乱した。我が弟ながら、こいつは何を言っているのだろうか。この新聞記事によって判明したのは矢渡家の位置だけではない。きぬが季糸であったという確証である。それであればやはり、彼女は矢渡家の女なのだ。それを連れ戻すなどとは。これではただの誘拐である。


 義真の険しい顔を眺めていた園田だが、不意に拳で手のひらを打った。


「あ、宗克君。大事なことを先生にお伝えし忘れていたよ」


 園田は、近所に珍しい野鳥を見つけたのだ、と報告をするくらい何でもない口調で言った。


「あの綾子あやこと言う女の子のことですが、矢渡季糸きい……いえ、きぬさんには、出産歴は見つからなかったんですよ」


 であれば、養子だったということだろうか。それよりもなぜ、この男はそんな情報を手にしているのだろう。園田はのんびりと笑う。


「色々コネがありましてね。役所勤めですから。あちらの方の知り合いにちょっとあれすれば……ね」


 それは職権乱用というか、のぞき太郎など可愛らしく思えるくらいの犯罪なのではなかろか。けれども園田は悪びれない。


「養子縁組みもしていないようでした。あと、もう一つ興味深い噂がありまして」


 お耳を拝借、と園田が顔を寄せる。


「あの矢渡聡一ですが、実はとても……」


 誰が聞いている訳でもなかろうに、一段声を落として囁かれた言葉。義真は柄にもなく動揺する。これは確かに、大声で話すのははばかられるほど、えげつない。義真が矢渡聡一であったら……無論、義真にはそんなはないのだが、仮に彼であったらと考えると、こんな不名誉な噂を遠く離れた天狗ですら知る事になったという事実に、何やら不憫にもなって来る。


「いかがです。きぬさんはただ、良いように利用されているだけだと思いませんか?」


 義真は袖の下で腕を組み、園田の話を反芻はんすうしつつ考え込む。


 きぬにとって、何が一番幸せなのだろうか。義真には判然としない。だが、矢渡聡一の元にいる利点は何かと問われれば、ほとんど何もないようにも思えた。しいて言えば奴がきぬと同じ人間であるということと、金銭的余裕くらいなものだろう。義真が天狗だということは変えようもないのだが、別に奄天堂家とて金に困っている訳ではない。


 物思いに沈んだ様子の義真。これまで淑やかに成り行きを見守っていた澄が、最後の一押しのため、口を開く。


「奄天堂さん。こういった事情ですから」


 澄は、断固とした口調で締めくくった。


「きぬさんを助けましょう。私、きぬさんが矢渡なんて、嫌です!」


 そうか、確かに矢渡きぬ……いや、矢渡季糸など、全くの別人である。義真の側でいつもぼんやりと微笑んでいた彼女は奄天堂きぬ。義真の世界を再び照らしてくれた、かけがえのない存在だ。


 矢渡家で幸福に過ごすことができるのならば、それはそれで良いと思った。今もその気持ちは変わらないけれど、もし、矢渡家で過ごすことにより、きぬの笑顔が消えてしまうのだとすれば。


 義真は視線を上げる。澄の瞳が、室内に差し込んだ陽光を浴びてみどりを帯びている。生気を宿し爛々らんらんと煌めくまなこに、義真は頷き返した。


「確かに、矢渡は嫌だ」


 澄が安堵したように頬を緩め、園田が手を打つ。宗克だけは「え、そこ?」と呟いていた。三者三様の反応を、義真は袖の下で腕を組みつつ興味深く見守った。他人の助言に耳を傾けることも、悪くはない。人間の街での生活を通じ、義真の頑なな心は、本人が気づかぬ場所で、優しくほころぶようだった。

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