奴が出る

 その後は何とも気まずい時間が過ぎて、気づけば皿は、綺麗に空になっていた。相変らず覇気のない給仕が、追い立てるかのように皿を下げてしまったし、もとより会話の種もない兄弟は、早々に店を出る。


 もちろん、きぬへの土産も忘れない。「洋食 はいから」自慢のコロッケと鰺フライ。選定したのは義真である。病人にこのような重たい油ものを差し入れるなど、何の嫌がらせかと思うところだが、きぬなら喜んで食べそうなので何も言わなかった。


 街燈がいとうが街を照らすとはいえ、晩秋の陽は短い。さほど夜も更けていない時刻だが、夜目が利かぬ天狗には、不便な季節である。若干おぼつかない足取りの義真を見かね、袖を引く。


「危ないだろ。もう少しゆっくり帰ろう」


 すると義真は、ぼんやりとした光に照らされた宗克の顔が浮かぶ辺りへと定まらぬ視線を向けて、生真面目な顔で言ったのだ。


「いや、近頃は物騒だ。あまり長く留守にするのは良くない」

「物騒?」


 義真は大きく頷く。


「出るのだろう。……怪人のぞき太郎が」


 そんな話、いったい誰が信じるというのだろう。正直、誰かが面白半分で広めた下らない怪談であると思っていたのだが、噂を真に受けた者が驚くほど身近にいたので、宗克は思わず口を閉ざした。


 幸い、小石につまずくこともなく帰宅する。奄天堂家の玄関から漏れ出る淡い光の中、引き戸を引くなり、それは聞こえた。


 耳をつんざくような甲高い叫び……と言いたいところだが、かすれ気味の中音域。それは紛れもなく悲鳴だった。風邪を引いて変声期の少年のような声になった、きぬの絶叫である。


「義姉さん!」


 いつもはのんびりとした所作を崩さないきぬの尋常ない大声に、宗克は下駄を脱ぎ捨てて声の方へと走る。


 駆け抜けた廊下は、板が抜けんばかりの軋みを上げた。声の出どころへと辿り着く。着物は寝衣しんいに着替えたらしいが、相変らず半纏はんてんを二枚重ねて着込んだ姿のきぬは、濡れ縁で尻もちを突いてひっくり返っていた。義真が助け起こすと、その腕にしがみ付くようにして、きぬは叫んだ。


「で、出たの。変な人……怪人のぞき太郎が!」

「まさか!」


 思わず宗克が口走ったのは、「まさか、怪人なんている訳ないじゃないか」という意味合いである。しかし義真は全く別の角度から反論をした。


「出る訳ないだろう。きぬは熟女ではない」

「へ? へっ……くしゅん!」


 この会話をどこから処理すれば良いのか判断に苦しんだ宗克は、何も聞かなかったことにした。


 きぬは、本気で怯えているらしい。ぶるぶると震えながら、義真の消炭色けしずみいろの袖を引っ張る。


「あそこ。柿の木の辺りからね、こっちを見ていたの」


 疑わしい目つきで視線を遣ってみたが、まばらに立ち並ぶ街燈の心許ない朱色の光と、茶の間から漏れた黄色い光に照らされてぼんやりと浮かぶのは、枝先に実を付けて重たそうに項垂うなだれるいつもの木。見間違いだろうと断言しようとしたのだが、義真が親の仇でも見るような鋭い目で柿の木を睨んでいたので、何も言えなくなる。なんだかこの木がかわいそうだ。


「奴はどこへ行った」

「み、右の方……ううん。竹垣の向こうかも。ごめん、びっくりしちゃってちゃんと見ていなかったの」


 言ってまた一つ、くしゃみをするきぬ。それに重なるように、竹垣の隙間から、ご近所さんが声を投げる。


「奄天堂さん、大丈夫ですか」

「何かあったんです?」

「きぬさん!」


 最後に飛び込んできたのは、聞き慣れた澄んだ声。竹垣の間から覗く瞳が、淡い光を反射してみどりを帯びた。大迫澄。なぜこのような時間に、と思ったが、隣からこちらを窺い見る中年男性が視界に入り、納得した。男性は澄の偽許嫁いいなずけである。二人でどこかへ出かけた帰りだろう。


 次々と集まって来る野次馬、もとい、ご近所さんに辟易する。存在の有無すら疑わしい「怪人のぞき太郎」。それを目撃したと主張したのは、熱にうなされる病人である。きっと幻覚に違いないのだから、あまり大事おおごとにしない方が良いはずだ。


「お騒がせしてすみません。何でもありま……」

「出たの!」 


 宗克の思いも空しく、きぬはたんが詰まった声で叫んだ。


「出たんです。怪人のぞき太郎が!」


 宗克は頭を抱えたが、時すでに遅し。ご近所さんの間に騒めきが広がる。


 今宵、正義感溢れる有志により、奄天堂家が「怪人のぞき太郎対策本部」と化したのは他でもない。きぬの一声が発端である。

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