兄弟と洋食屋

 向かったのは、近所の大衆食堂。暖簾のれんには「洋食 はいから」と書かれているのだが、いざお品書きを見てみれば、和洋折衷の料理が並ぶ。先日、千賀と俊慶を連れて夕食をとった店である。


 漆喰しっくいの壁に無造作に貼り付けられた黄ばんだ紙面に目を走らせて、宗克はライスカレー、義真はコロッケ定食を注文する。


 人間の住まう地域の一角に位置する店ではあるが、さすがに常連天狗の姿は見慣れたらしい。義真の翼に好奇の視線を向ける店員はいない。けれども客は、その限りではない。


 近所の住民は天狗先生を認識しているので、軽く挨拶を寄越す程度だが、隣町から来たとおぼしき一家が、ちらちらとこちらに視線を向けて来た。昔から、兄に向けられる理不尽な視線を嫌悪していた。宗克は一家をひと睨みする。彼らは善良なたちのようで、慌てて目礼をして視線を逸らせた。


 時には、兄が天狗というだけで揶揄やゆするような人間もいて、宗克はいつも反発をした。その度に義真は興味がないような顔をして、その目で弟を諫めるのだ。不快に思っていない訳ではなかろうに。を読むのは得意だけれど、この兄天狗の心の内はやはり、掴みどころがないのであった。


「コロッケー、カレー」


 果たして、やる気があるのか疑わしい覇気で、料理が給仕される。何度か来店しているが、店員の素っ気なさはいつもと同じ。けれどもその味はお墨付きである。今宵も「はいから」は平常運転だ。


 義真はコロッケが好きらしい。いつにない大口を開けて、ふんわりと千切りにされた甘藍キャベツと、舌を火傷しそうなほどの湯気を放つコロッケの欠片を頬張る。勝色かついろの翼が揺れる。上機嫌の証だ。天狗という人種は何とも可愛らしい。あの千賀でさえ、機嫌が良ければ陽気に翼を揺らすのだ。


 兄があまりにも寡黙なので、宗克は周囲の会話に耳を澄ます。あちらこちらから届く笑い声が鼓膜を震わせて、こちらまで平穏な心地になる。穏やかな家族の囁き、幼子のぐずる声、仕事帰りの背広姿が何かの達成を祝う声。そんな平和なざわめきの中、宗克の耳は一つ、不穏な名を捉えた。


「怪人のぞき太郎が」


 思わず米を吹き出しそうになるが、辛うじて堪える。義真が怪訝そうな目で顔を上げた。 


 宗克は喉を鳴らして水を飲み、なんでもない、と首を振って耳を澄ませた。


「……出たって。……うん、そう」


 席が遠いらしく、詳細までは聞こえない。新聞によれば、くだんの怪人さんは隣町に出没したのだという。宗克らの町にやって来るのは時間の問題か。もう一度耳をそば立ててみたのだが、あいにく聞こえたのは、いつもの不愛想な声。


「宗克」


 兄が先に口を開くのは珍しい。宗克は匙をくわえたまま、目線を上げる。


「年末に帰省しようと思っている。……きぬを連れて行くか、迷っている」


 義真と六年振りに再会した奄天堂家の客間で、故郷に戻らぬこと、きぬを家族から遠ざけていることを批難したのは宗克だった。


 だから、義真が何やら根回しをして、帰省の手はずを整えていることは、察していた。それと、兄が智絵の実家、榊原さかきばら家からの手紙を隠し持っていることも、実はこっそり盗み見て知っていた。いや、断じて内容は覗いていない。宗克はのぞき太郎ではない。


「帰るのは良いんじゃないか。……榊原さんはなんて?」

「きぬのことは何も。ただ、すまなかったと」


 ほくほくに煮込まれた芋を割ろうとした宗克の手が、思わず止まる。思い直して、何事もなかったかのように米と共に掬って口に入れた。


 智絵が亡くなったのは、義真のせいだ。彼女はとても社交的で、常に人の輪の中心にいる女性だった。そのことにおごり高ぶる節もなく、皆から好かれる、人望あつい人だった。


 智絵ならば、天狗に囲まれても上手く暮らしていけるのではなかろうか。百歩譲って、そう考えるのは理解ができる。しかし、身体を病んだ智絵を山に閉じ込めたのは、誰の目にも明らかな間違いであった。智絵は、人の輪の中にあってこそ、その魅力を発揮し、自身も心安らかに過ごすことができる人だった。


 義真は悪気なく、心から智絵のためを思い、空気が澄んだ山に移り住んだのだろう。それに反発をしなかった智絵にも非はある。しかし宗克は、智絵のことを何一つとして理解していなかった義真に失望し、恨みすら覚えたのである。


 赤面承知で認めてしまうが、宗克は智絵が好きだった。義姉として、以前に、女性として好いていた。あれは幼い初恋であった。十以上も年齢が離れている宗克など、智絵の眼中にはなかっただろう。智絵が、義真と結ばれる前に一度隣町に嫁いだ時、宗克はまだ蟻の巣を埋めたり、貝独楽ベーゴマ遊びに精を出したりしていた年頃であったのだから。


 さすがに義姉となった智絵に恋情を抱くことなどなかったが、ともかく宗克にとって、智絵は特別な存在であったのだ。けれども兄は、智絵を壊してしまった。


 智絵の死後、宗克と義真が榊原家を訪ねた際、玄関先で水を掛けられた。二度と来るなと、釘を差された。智絵の家族の気持ちは、痛いほど分かる。果たして今となって、「すまなかった」などと、彼らが謝罪をする必要があるのだろうか。


 宗克は兄の表情を直視することができず、俯いたまま人参を割った。鮮やかな朱色の断面が、香辛料の雪崩なだれに呑み込まれ、一瞬で見えなくなった。


「宗克」


 低く呼ばれる。顔を上げなくとも分かる。兄は今、微かな困惑が浮かんだ目で、こちらを眺めているのだろう。


「宗克?」


 もう一度呼びかけられて、仕方なく顔を上げる。ふてぶてしいほどの顔を想定していた。実際、他人が見れば、いつも通りの無表情だと思っただろう。だが、宗克には分かる。


 過ぎ去りし日に思いを馳せた真っすぐな義真の瞳は、憂いを帯びて小さく揺れていた。らしくもない兄天狗の姿に、怒りも反発心も、ライスカレーから立ち昇った湯気と一緒に霧散する。


 宗克は人参を頬張った。たっぷり時間をかけて咀嚼して、喉を鳴らして嚥下した。


「……帰省ね。まあ、良いんじゃないか。義姉さんに聞いてみろよ」


 義真はただ、小さく「そうか」と答えただけだった。


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