兄弟と洋食屋
向かったのは、近所の大衆食堂。
人間の住まう地域の一角に位置する店ではあるが、さすがに常連天狗の姿は見慣れたらしい。義真の翼に好奇の視線を向ける店員はいない。けれども客は、その限りではない。
近所の住民は天狗先生を認識しているので、軽く挨拶を寄越す程度だが、隣町から来たと
時には、兄が天狗というだけで
「コロッケー、カレー」
果たして、やる気があるのか疑わしい覇気で、料理が給仕される。何度か来店しているが、店員の素っ気なさはいつもと同じ。けれどもその味はお墨付きである。今宵も「はいから」は平常運転だ。
義真はコロッケが好きらしい。いつにない大口を開けて、ふんわりと千切りにされた
兄があまりにも寡黙なので、宗克は周囲の会話に耳を澄ます。あちらこちらから届く笑い声が鼓膜を震わせて、こちらまで平穏な心地になる。穏やかな家族の囁き、幼子のぐずる声、仕事帰りの背広姿が何かの達成を祝う声。そんな平和な
「怪人のぞき太郎が」
思わず米を吹き出しそうになるが、辛うじて堪える。義真が怪訝そうな目で顔を上げた。
宗克は喉を鳴らして水を飲み、なんでもない、と首を振って耳を澄ませた。
「……出たって。……うん、そう」
席が遠いらしく、詳細までは聞こえない。新聞によれば、
「宗克」
兄が先に口を開くのは珍しい。宗克は匙を
「年末に帰省しようと思っている。……きぬを連れて行くか、迷っている」
義真と六年振りに再会した奄天堂家の客間で、故郷に戻らぬこと、きぬを家族から遠ざけていることを批難したのは宗克だった。
だから、義真が何やら根回しをして、帰省の手はずを整えていることは、察していた。それと、兄が智絵の実家、
「帰るのは良いんじゃないか。……榊原さんはなんて?」
「きぬのことは何も。ただ、すまなかったと」
ほくほくに煮込まれた芋を割ろうとした宗克の手が、思わず止まる。思い直して、何事もなかったかのように米と共に掬って口に入れた。
智絵が亡くなったのは、義真のせいだ。彼女はとても社交的で、常に人の輪の中心にいる女性だった。そのことに
智絵ならば、天狗に囲まれても上手く暮らしていけるのではなかろうか。百歩譲って、そう考えるのは理解ができる。しかし、身体を病んだ智絵を山に閉じ込めたのは、誰の目にも明らかな間違いであった。智絵は、人の輪の中にあってこそ、その魅力を発揮し、自身も心安らかに過ごすことができる人だった。
義真は悪気なく、心から智絵のためを思い、空気が澄んだ山に移り住んだのだろう。それに反発をしなかった智絵にも非はある。しかし宗克は、智絵のことを何一つとして理解していなかった義真に失望し、恨みすら覚えたのである。
赤面承知で認めてしまうが、宗克は智絵が好きだった。義姉として、以前に、女性として好いていた。あれは幼い初恋であった。十以上も年齢が離れている宗克など、智絵の眼中にはなかっただろう。智絵が、義真と結ばれる前に一度隣町に嫁いだ時、宗克はまだ蟻の巣を埋めたり、
さすがに義姉となった智絵に恋情を抱くことなどなかったが、ともかく宗克にとって、智絵は特別な存在であったのだ。けれども兄は、智絵を壊してしまった。
智絵の死後、宗克と義真が榊原家を訪ねた際、玄関先で水を掛けられた。二度と来るなと、釘を差された。智絵の家族の気持ちは、痛いほど分かる。果たして今となって、「すまなかった」などと、彼らが謝罪をする必要があるのだろうか。
宗克は兄の表情を直視することができず、俯いたまま人参を割った。鮮やかな朱色の断面が、香辛料の
「宗克」
低く呼ばれる。顔を上げなくとも分かる。兄は今、微かな困惑が浮かんだ目で、こちらを眺めているのだろう。
「宗克?」
もう一度呼びかけられて、仕方なく顔を上げる。ふてぶてしいほどの顔を想定していた。実際、他人が見れば、いつも通りの無表情だと思っただろう。だが、宗克には分かる。
過ぎ去りし日に思いを馳せた真っすぐな義真の瞳は、憂いを帯びて小さく揺れていた。らしくもない兄天狗の姿に、怒りも反発心も、ライスカレーから立ち昇った湯気と一緒に霧散する。
宗克は人参を頬張った。たっぷり時間をかけて咀嚼して、喉を鳴らして嚥下した。
「……帰省ね。まあ、良いんじゃないか。義姉さんに聞いてみろよ」
義真はただ、小さく「そうか」と答えただけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます