着物はだけ太郎?

Ψ


宗克むねかつさん、大丈夫かな」


 きぬは心配で胸が苦しいほどである。一方、宗克の兄であるはずの義真は、今晩のはかりごとなど取るに足らないこととでも思っているようだ。彼は書物から視線を上げて短く答える。


「大丈夫だろう」


 何の根拠もない言葉。それなのに、義真がそう言うのならと、何やら安堵が心に広がるのだから不思議である。きぬは無意識に揉んでいた手を下ろした。


「そうだよね。宗克さんだものね」


 宗克が聞けば、何を適当なことを言っているのだと肩を怒らせただろう。あいにく当の義弟は大迫家にて、潜入任務の真っ最中だ。


 事の始まりは、つい一週間前。嵐を運んで来たのは無論、園田である。突如として奄天堂家にやって来て、茶柱を見つめ湯呑に吸い込まれんばかりに項垂うなだれていた園田。語った作戦は、相変わらず突拍子もない。


 なんと、怪人のぞき太郎に扮した宗克が大迫家に忍び込み、屋敷中を攪乱させて、そのどさくさに紛れて澄を監禁部屋から連れ出すという策略である。


 あまりにも過激な作戦だ。そもそも、不法侵入や誘拐の罪でお縄になってしまうのではなかろうか。そんなきぬらの懸念をよそに、園田はあっけらかんと答えたのだ。


「大丈夫ですよ。家主の清嗣せいじさんの許可は取ってありますから」


 実父の許可を得て娘をかどわかすなど、とんだ茶番劇。決行隊に任命された宗克は当然、渋面だ。


 どうも清嗣は大迫家での発言権が弱く、表立っては妻の壽々子に意見できぬ立場らしい。理由を問いかけてみれば園田は曖昧に微笑んで、「入り婿ですからねえ」と、分かるような分からないようなことを言っただけだった。


 兎にも角にも作戦は決行され、今に至る。上手く行けば今晩のうちに、澄はお屋敷を抜け出して、園田家に向かう手はずとなっていた。


 宗克が危険な目に遭わないか。澄は無事逃げ出せるのか。ほとぼりが冷めた後、母娘は円満に和解できるのかなど、心配の種は尽きない。けれども留守番組というか、そもそも作戦の一部にも名を連ねる予定のないきぬは、こうして悶々と過ごすより他ないのである。


 きぬは食後のお煎餅をぺろりと平らげ、あまりの心労にもう一枚食そうと手を伸ばしかけてから自制した。ひと仕事終えて戻って来る宗克のためにとっておいてやらねば。


 いよいよ手持無沙汰になったきぬは、よいしょ、と腰を上げて宣言した。


「お風呂に入って来る」


 義真は書物に顔を向けたまま、眼球だけ動かしこちらを見上げ、一つ頷いた。


 黄色い洋燈ランプの灯りが、障子に天狗の影を落としている。その横を通り抜け、薄暗い廊下を進み風呂場へと向かう。湯の用意は済んでいた。


 脱衣所で着物を脱ぎ丁寧に畳んで、襦袢じゅばん姿になる。普段は肌身離さず首から掛けている古びた縮緬ちりめんの巾着も、この時ばかりはさすがに外し、明仙めいせん着物の鮮やかな藤色の上に丁寧に置いた。巾着に刺繍された抱き楓の紋がこちらを見上げる。天狗の双翼を連想し、自ずと義真が上機嫌に翼を揺らす姿が脳裏を過ぎり、きぬはふと頬を緩めた。


 春の足音を感じる季節とはいえ、夜はまだ冷える。気を取り直し、早々に全て脱ぎ捨てて、湯に浸かって温まろうと意気込んだ時。きぬの耳に、かさり、と何かがうごめく音が届いた。


 なにやら背筋に冷たい物が走り、思わず一切の動作を止める。耳を澄ませば再度、奇妙な気配。息を潜め、気配を逆から辿る。それはおそらく、引き戸の向こう。廊下の辺りから漂っている。


「義真さん?」


 呼んでみたのだが、そのはずはないだろう。彼はとうに風呂を上り、本の虫になっていた。それであれば宗克か。だが、彼は先ほど大迫家に向かったばかり。まさか早々に失態を犯し、戻ってきたのだろうか。


「どなたですか?」


 返事はない。けれども気配は、未だ残っている。きぬは少し躊躇ためらってから、大胆にも戸を勢い良く開く。そして。


「わああああ!」

「うわああああ!」


 二つの絶叫が重なる。この騒ぎにはさすがの義真も尋常ならざるものを感じたらしく、のっそりと角から現れた。そのすぐ脇を、不審な黒い影が風のように駆け抜けて行く。民家に侵入し、風呂を覗こうとするだなんて。奴はに違いない。


「義真さんっ! 出た! 胸毛の、着物はだけ太郎……じゃなくてのぞき太郎!」


 きぬの叫びを耳にした義真は微かに眉根を寄せて、きびすを返して不審者を追う。そのまま庭に出て、逃亡のため竹垣をよじ登ろうとするのぞき太郎に追いすがる。大きく翼を広げて跳躍すれば、どうやら人間よりは高く浮かび上がれるらしい。義真は竹垣をいとも簡単に乗り越えて、町を疾走した。


 慌てて追いかけようとしたきぬだが、情けなくも襦袢姿であることに思い至り、風呂場にとって返す。


 今宵は月明かりが弱い。夜目が利かない天狗には、辛い夜である。雑に着物を羽織りながら、きぬは祈るように呟いた。


「義真さん……頑張ってね!」


 義真が聞けば、何と他人事なと眉を顰めただろう。我ながら、緊張感に欠ける声音であった。

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