顔も知らぬ共犯者

Ψ


 今宵は新月。町は闇に沈んでいる。家々から漏れ出る洋燈ランプの明かりがやけに眩しい晩である。宗克は一人、犯罪者にでもなった気分で、大迫家中庭の松陰に潜んでいた。いや、この場合、本当に罪人かもしれない。


 今回の作戦に際し、園田は「家主の許可は取っている」と言っていた。ならばまさか牢屋行きにはならないだろうけれど、事情を知らぬ大迫の奥様にでも認められてしまえば、事態は大事おおごとだ。


 幸いなことに、宗克はほとんど大迫壽々子と顔を合わせたことがない。時折道端ですれ違っても、大きめの帽子を被っていることが多い宗克である。顔は良く見えないに違いない。壽々子も人付き合いが盛んなたちではないようで、近所の青年と頻繁に言葉を交わすような奥様ではなかった。


 こちらも相手の顔をまじまじと観察したことはないが、壽々子の方も一瞥しただけでは、まさか宗克が奄天堂えんてんどう義真ぎしんの弟だとは気づかないだろう。しかし念には念を入れるべき。今宵の宗克は黒い羽織を頭から被り、闇に紛れている。そので立ちは誰がどう見ても、立派な変質者である。


 作戦は、夜が更け、清嗣が風呂に入るのを合図として決行される。風呂場は離れに位置していて、清嗣が桶を抱えて上機嫌に向かう姿が、庭から目視できる。


 しばらくしてからその背を追い、風呂を覗きに来た怪人のぞき太郎を演じるのである。澄が軟禁されている蔵の鍵を清嗣から受け取った後、見張りが騒ぎに気を取られている隙を縫い、澄を連れ出す手はずだった。


 だが、宗克には一つ気がかりなことがある。先ほどからどこかで、宗克以外の生き物が草を揺らすような音がするのである。猫か蛙だろうかと思い、最初は気に留めなかったのだが、不意に聞こえた低音に、一切の動きを止めた。


 耳を澄ませる。どこかで、「えへん」と小さな咳払いのようなものが聞こえた。お屋敷の中にいる誰かの声だと考えるのが通常の判断だが、宗克の脳裏に浮かんだのは、以前きぬが語った言葉だった。


『澄さんがね、誰かに見張られている気がすると言っているの』


 廊下をひたひたと歩き、不審な影ばかりで実体がない。どこをどう考えても、それは幽霊である。宗克は確信していた。大迫家には、目に見えぬ霊的な物が憑りついているのだ。もしかしたら今この瞬間、宗克の背後にも……。


 空恐ろしくなり、勢い良く振り返る。幸い、身じろぎに刺激された木々が黒々とうごめいただけで、何もいなかったのだけれど、揺れる木の葉ですら恐ろしい物に思えて来てしまい、疑心暗鬼は止まらない。


 これはいけない。こんな心持ちでは、のぞき太郎の模倣など、満足に出来やしない。気合いを入れるため、大きく深呼吸をした刹那。


 何やら通りが騒がしい。どっと騒めきが湧き起こる。何事かと、女中部屋から女が出て来たので、見つからなようにいっそう身を屈めた。


 喧騒を耳にして、思わず野次馬根性に負けそうになったのだが、すんでのところで思い止まる。屋敷中の意識が外へ向かっている。これは千載一遇せんざいいちぐうの機会かもしれない。宗克は自制心を引っ張り出して、当初の作戦通り忍び足で離れの風呂場へと向かった。


 途中、人の気配に驚いたらしい錦鯉が池で跳ねた。危うく声を上げかけた。大迫家はご近所では有名なお屋敷であるが、一般家庭には変わりない。敷地は広く、庭師が入っていると見える庭園は整然と美しかったが、身を潜めた松の陰から目的の風呂場までは一分たりともかからないのだ。宗克は羽織をすっぽりと被り、身を屈めつつ廊下を用心深く駆け抜ける。


 風呂場の前で軽く息を整えて、戸を叩く。ここで、澄を閉じ込めた部屋の鍵を受け取る予定になっていた。その後時間を空けて清嗣が「怪人のぞき太郎だ!」と叫ぶのである。しかし。


「清嗣さん。宗克です。開けますよ」


 気が急いていたので返答も聞かず、ましてや気配を読むことなどもなく、勢い良く戸を引く。それから宗克は、視界に入ったものに目を剥いた。


「せ、清嗣さん! 何を呑気に。……て、え!? 背中……」


 もくもくと立ち込めた綿飴の如く湯煙の中にぼんやりと、細長い男の影がある。清嗣はこちらに背を向けて、本格的に風呂に入っていた。突然の闖入者ちんにゅうしゃを認めるまで上機嫌に鼻歌まで歌っていたらしく、室内には歌謡曲の旋律の余韻が響き渡っていた。


 清嗣は肩越しに振り向いて、驚愕が一巡した頃合いでやっと言葉を発した。


「あれ、宗克君……じゃあさっきの人は?」

「さっき?」

「いやいや、君さっき、鍵取りに来たよね?」

「いったい何を言っているんですか。俺は今初めて」


 言いかけて、口を閉ざす。清嗣の方も、やっと理解が追いついたらしい。細長い中年男は少し首を傾けて言った。


「君が宗克君。そうそう、こんな小柄な青年だったよね。ということは、澄の部屋の鍵を持って行ったのは」

「澄さんが危険だ!」


 なぜ宗克の偽物がいるのだろうか。それとどうして清嗣は、呑気に風呂になど入っているのだろうか。のぞき太郎襲来の叫びを上げる予定ではなかったか。


 そもそも、共謀者が互いの顔を曖昧にしか認識していないなど、お粗末に過ぎる作戦である。


「だから嫌だったんだよ」


 ぼやきながら、宗克はきびすを返し、あらかじめ確認してあった澄の居場所へと走る。鍵を持ち出したのはきっと、宗克など目ではないほどの変質者。魔の手が、澄に近づいている。それを思えば、その他雑多な懸念など、取るに足らないことのように思えた。


 だから、風呂場で見た衝撃の光景など、宗克の頭から頭からすっかり消し飛んでしまっていた。それを思い出すのは、事件が一段落した頃。もう少し先のことである。

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