蔵からの脱出

Ψ


 屋敷中が寝静まる時分、澄は毎晩蔵に幽閉される。外から錠が掛けられ、内側からでは押しても引いても微動だにしない。実の娘を荷物か何かのように蔵に閉じ込めるだなんて、壽々子すずこはとうとう心すら病んでしまっているのではなかろうか。


 いくら母への恨みを叫ぼうにも、壁が厚い。夜通し悪態をくのは最初の晩で止めにした。それよりも、早く眠って朝を迎えた方が、精神衛生上好ましい。


 夜中にも見張りを置くわけにはいかないらしく、深夜の逃亡を防ぐため、蔵に入れられている。翌朝になれば光江みつえが鍵を持ってやって来て、澄は屋敷の中に入れてもらえるのである。


 いかめしい造りの南京錠は、解錠時にかなり大掛かりな音が鳴る。奇跡が起きて、深夜に誰かが澄を解放してくれたとしても無駄である。異音に気づいた誰かが様子を見に来るだろうから。


 薄い布団に包まって、火鉢が発する朱色の鈍い光を眺める。石油洋燈ランプも傍らに置いてはいたが、どうせやることもないので灯してはいない。澄は、石油の燃焼する刺激臭が苦手であった。


 人間らしい生活空間に戻してもらえる日中も、ほとんど全ての時間を室内で過ごしている。身体的な疲労は髪の毛一本分も蓄積していない。ともすれば不健康に肥えてしまいそうであるが、嘆いても仕方がないのだ。


「早く朝になれ」


 祈るように呟いて、澄はきつく瞼を閉じる。一刻も早く眠りに落ちてしまいたい。そんな気持ちに反するように、赤々とした炭の光が残像となり、視界が騒がしい。さらに瞼に力を入れてみたけれど、喧騒はおさまらない。そう、うるさいのだ。蔵の分厚い壁を通してでも鼓膜を震わせるほどの騒々しさである。と、そこまで考えて澄は、瞼を上げた。


 騒がしいのは視界だけではないのだ。はっきりと、耳に届く騒音がある。


 澄は布団から半身を起こし、耳をそばだてた。騒ぎは時と共に大きくなっているようだ。こんな夜更けに、やけに切羽詰まった様子の人の声。まさか火事でもあったのだろうか。施錠された蔵の中。一人蒸し焼きになる未来が鮮明に脳裏に浮かび、とうとう快適な布団から滑り出て、扉を叩いた。


「だ、誰か。助けて!」


 無論、反応はない。その間にも、騒ぎは近づいたり離れたりを繰り返し、おさまる様子は一切ない。


「焼け死んじゃう。まだ死にたくない」


 ほんの小さな一歩だけれど、夢が叶い『黎明』に名を載せることができるようになった。もっと書きたい物語があった。できれば女学校も卒業したかった。友人にも別れを告げたい。あんみつ食べたい。矢渡やわたりを一発殴りたい。それに。


「園田の小父おじ様……」


 先日、学友経由で園田に助けを求めた。それなのに、救出が間に合わなかったばかりに澄が丸焦げになった姿で発見されたのなら、彼は自責の念に駆られるだろう。そう、いくら園田がお気楽な小父さんだとしても、少なからず心を痛めるはずだ。


 今思えば、園田はその大きな愛情で、澄の全てを受け入れてくれた。投書のことも喜んでくれた。きぬが言った通り彼ならば、仮に真の夫婦になったとしても、澄を家に縛りつけることなどしないだろう。ましてや、蔵に押し込むなど、もってのほかである。


 残念ながら互いへの情は叔父と姪の間に生まれるようなものであり、いくら時をても艶めいたものにはならないだろう。けれども彼は疑いようもなく、澄の心の大きな部分を占領する人であった。


「開けて! 誰か。光江さん、お母様、お父様。ああもう誰でもいいわ。いっそ矢渡でも」


 とうとう憎き青年の無駄に端正な顔が脳裏を過った時である。不意に、鉄が擦れるような音。次いで、がちゃんと錠が外れる。


 何やら揉めるような声と痛々しい殴打音がしてから、扉が開く。中庭の暗がりに溶け込むような色合いの、男物の羽織が見える。澄は思わず叫んだ。


「小父様!」


 扉が開ききり、全貌が露わになれば、眼前の男は想定したよりも小さかった。澄の叫びに怪訝そうな視線を向けたのは、ご近所の元不審者である。彼はやや顔を顰めて、言った。


「おじさまって。俺、まだ二十代前半だけど」

「……宗克さん。どうして」

「話は後で」


 躊躇いもなく腕を掴まれて、蔵から引っ張り出される。澄は庭に躍り出るような恰好になる。爪先つまさきが何か柔らかく、温もりを放つものに触れた。視線を落とし、悲鳴を押し殺す。


「死体!」

「大丈夫、気絶しているだけ」

 

 宗克にのされたのだろうか。着流し姿の中年男が、地面に伸びている。状況が読めない澄は、周囲を見回した。目を刺すような光度を放つ炎の赤はない。それどころか月の細い晩である。いつもよりも薄暗いくらいだった。


「火事は?」

「火事? 違うよ澄さん。何も燃えてない」

「じゃあこの騒ぎは?」


 門の方へ小走りに進みながら問うてみれば、宗克は酷いしかめ面で離れの方を見遣った。


「いや、俺にも何が何だか。にわかには信じがたいことだけど、出たんだよ」

「出たって」


 澄は身震いする。


「もしかしてお化け」

「いや、怪人。例の、のぞき太郎」


 澄は言葉を失う。のぞき太郎は昨年の秋、園田の協力の元、奄天堂家の皆さんが捕獲して、警察に連行されたはずではなかったか。


 澄の表情を一瞥した宗克は、頬に浮かぶ疑問を感じ取っただろうけれど、今は悠長に会話を交わしている場合ではなさそうだ。彼は短く言った。


「とりあえずこの家から逃げよう」

「え?」

「園田さんから頼まれたんだよ。澄さんを」


 宗克の言葉は、甲高い男の悲鳴に遮られた。ちょうど通りに出た澄と宗克の目に、恐ろしい光景が映った。


 薄闇の中、大柄な天狗が、威嚇でもするかのように翼を膨らませている。射干玉ぬばたまの如く瞳に憤怒ふんぬの色を宿し、睨みつける先には、無様に尻もちを突いた人間の男である。


 妙に薄着で胸元がはだけているのは、暴れて着崩れたのだろうか。暗がりで顔面が判然としないのだが、それにしてもこの男、どこかで見たことがあるような。


「た、助け……」

「義真さん、だめ!」


 鋭い語調ではあるのだが、妙に気が抜けるような声を放ったのは、奄天堂きぬ。こんな夜更けに何が起こっているのだろうか。澄は、目を白黒させる。


 きぬが小走りで駆け寄り義真の腕にしがみ付く。よく見れば、天狗の手には何やら石が握られていた。逆の手には、おそらく菜箸を加工した何か。


「ゴムパチンコはだめだよ! 義真さんが捕まっちゃう」

「兄貴、またそんな殺人兵器を」


 宗克が呻いて頭を抱える。命の危機に瀕している眼前の不審者には悪いのだが、澄は焦燥に駆られて宗克の袖を引いた。


「宗克さん、お母様が出て来ちゃう」


 屋敷内も、門前と同様に騒然としていて、おそらく壽々子も屋内に現れた方ののぞき太郎に手いっぱいなのだろう。なぜか第二ののぞき太郎……いや、混乱するので太郎と呼んでやるが、ともかく変質者を引き連れてやってきた奄天堂夫妻。彼らには申し訳ないけれど、澄は一刻も早くこの場から離脱せねばならない。


「行こう」

「奄天堂さんすみません」


 二人は傍から見れば旧来の親友のように手を取り合い、駆け出したのだが。


「澄!」


 抵抗虚しく、般若はんにゃのような形相をした敵の首魁しゅかい、壽々子に認められてしまったのである。

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