第七話 囚われの姫君を救出せよ

怪人の気配、再び

「あれ、澄さん来てないの?」


 帰宅早々言ったのは、宗克むねかつである。きぬは着物の綻びをつくろう手を止めて、頷いた。


「うん、そうなの。いつもなら、もうとっくにいらしている時間だけれど」


 宗克は少し首を傾けてから、「まあそのうち来るか」と呟いて、台所へ引っ込んだ。手には浅黄色あさぎいろの風呂敷が握られている。お気に入りの菓子屋で絶品みつ豆かあんみつでも買って来たのだろう。


 澄がやって来る日、宗克は時折こうしてお菓子を用意する。もちろんきぬや義真ぎしんの分もあるのだから、孝行な義弟である。特にあんみつは皆の大好物。値段は張るけれど、「お客様が来る日だから」と言い訳をして、結構頻繁に賞味していた。


 透き通る寒天、滴るのは艶やかに煌めく黒蜜。やや塩味のある赤えんどう豆が、味に彩りを加える。素晴らしきかな、あんみつ。


 甘味のことを考え出してしまい集中が途切れたきぬは、時計を見遣った。午後三時を過ぎていた。かれこれ二時間以上も針と睨めっこをしていたらしく、少し目が疲れてしまった。きぬは大きく伸びをして、濡れ縁に出る。


「さむ……」


 呟いて朱色の半纏はんてんの襟を掻き合わせた。如月きさらぎの寒空の下、庭の柿の木は相変わらず素っ裸で寒そうだ。ごつごつとして鱗のような樹皮はとても分厚いようなので、きぬと違って寒さに凍えるということはないだろうけれど。


 柿の木を眺めると、おのずと時の移ろいを感じる。初めてこの家にやって来た時も、この木は裸だった。夏には青々とした葉が生い茂り、秋にはたわわに甘柿をつけて、人々の腹を満たしてくれた。


「もうすぐ一年経ちますね」


 きぬの視線を追ったのだろう、いつの間にやら戻って来ていた宗克が感慨深げに呟いたので、きぬは同意する。


「そうだね。宗克さん、最初家に来た時はつんつんしてたね」

「いつの話ですか」


 きぬは小さく笑い、頬を微かに赤く染めた宗克の顔を見上げる。真向からの視線を受けて、宗克はふい、と視線を逸らした。本当は可愛らしい性格をしているのに、わざと硬派に装うのがいっそう愛くるしい。


 宗克は先ほどまで、身長を伸ばすためにミルクホールで牛乳珈琲でも飲んでいたのだろう。大人になったら牛乳を飲んでも背は高くならないのだと、先日義真が教えてくれた。きぬは頬が緩むのを堪えながら、宗克の努力に水は差すまいと、その事実は心のうちに留めているのである。


 けれども宗克がミルクホールに通うのは、何も牛乳のためだけではないのだ。本当の目的は、新聞である。特にここ数日はきぬが頼んで、昨秋に現れた変態、怪人のぞき太郎についての記事を調べてもらっている。


「宗克さん、例の件はどうだった?」


 声を潜めるきぬ。宗克も軽く周囲を見回して、声を低くした。


「やっぱり時々出るそうですよ。それも熟女ばっかり狙って」

「じゃあ、去年宗克さんたちが捕まえてくれたのぞき太郎さんは、偽物だったのかな」

「どちらが元祖のぞき太郎なのか、もはや分かりませんけどね」


 二人は額を突き合わせ、悩ましく呻いた。事の始まりは先週のこと。道端でばったりと出会った澄から、不穏な話を聞いたのである。


 何でも最近、誰かに見張られているような気がするのだという。最初はただの気のせいだと思っていたのだが、それにしては妙に鮮明な気配を放つ。朝方や夕方の薄暗い時間帯を中心に、庭を見慣れぬ影が横切り、風呂場の扉が不自然に揺れ、夜な夜な廊下を裸足で歩くようなひたひたという音がするらしい。 


 それは人ではなく、何か霊的な存在ではないのかと言ってみたのだが、澄は身震いをして「お、お化けなんていません!」とやけにきっぱりと否定したのである。


 根拠は不明なのだが、澄がああも強く言うのだから、間違いはないのだろう。だからきぬは不審者の代表格である怪人のぞき太郎が、また現れたのではないかと心配しているのだった。


 昨年逮捕されたはずののぞき太郎だけれど、年末ごろから再び、同様の事件が発生している。皆で捕まえた胸毛男は、偽物だったのだろうか。それとものぞき太郎は複数名による犯行なのか……。


「あのう、奄天堂えんてんどうさーん」


 不意に、間延びした男性の声が呼びかけた。どこか聞き覚えのある声である。きぬと宗克は顔を見合わせてから、玄関へと向かう。途中、茶の間で湯呑を傾けていた義真が何事かと視線だけ寄越したが、いつも通りふすまを閉めて、人付き合いを拒否する体制に入ってしまった。


 玄関扉を開けば、客人は髪に白い物が目立ち始めた年代の男性だった。藍鼠色あいねずみいろの着流し姿に濃紺の羽織り。いたって平凡な装いの壮年に、きぬは目を丸くする。


「あ、園田そのださん……?」


 門前にぽつんと立っていたのは、澄の偽許嫁である園田だった。彼とは先日の変態事件の折に共闘したきり、顔を合わせていなかった。幾らか気心知れた戦友とはいえ、何の前触れもなく一人でやって来るとは意外である。


「今日はどうされたんですか。澄さんは一緒ではないんですね」


 何気なく聞いてみれば、園田は「うっ」と顔を歪めた。それから消え入りそうな声で、言ったのだ。


「突然申し訳ございません。実は、助けていただきたいのです。澄ちゃんを」

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