猪とご近所さん
Ψ
「へ……っくしゅん!」
我ながら品のないくしゃみに辟易するが、夫である
当然取っつきにくく、周囲から変わり者扱いをされることが多々ある。そんな義真の艶やかな
人間きぬは、天狗の妻である。
記憶もなく、傷だらけで山中を徘徊していた折、天狗義真に保護された。程なくして二人は夫婦になり、山を下りて帝都近郊のこの町へと向かう。
きぬの過去を唯一示すのは、肌身離さず持っていた、楓の紋が入った巾着だけだった。きぬはもう、過去も人間としての人生も、必要ないと思っていた。それなのに、義真は人間の街で仕事がしたいなどと言い出した。今までみたいに、お山に籠って小説や論文を書き、時々林に入って薪を集めて来てくれれば、それでよかったのに。
天狗と人間は、古くからこの島国に共存していたけれど、きぬのように天狗に嫁入りする人間は稀である。
それは単に住まう場所が異なるからだけではない。天狗と人間は、互いに蔑視し合っていたからだ。戸籍分離制が廃止された今となっては、町にいるだけで追い立てられることはないし、全ての権利は平等に保証されている。
中央政府に行けば、数は少ないものの天狗の官僚もいる。それでも、一般の国民にとってはやはり、天狗はどこか遠く山の上に住む、良く分からない人種であった。
きぬは囲火鉢の火が弱まったことに気づき、腰を上げる。台所に向かい、揚げ板の下の収納庫から炭を運び出す。火箸で炭を火鉢に押し込んで角度を調整する。灰がほんの少し巻き上げられて、きぬはそれが落ち着くまで待ってから、火の調子を観察した。炭黒の端から灰褐色が浸食し、無事火力が上がったようだ。
ちらりと肩越しに視線を向ければ、義真は相変らず紙面に目を落としたまま。きぬは縫物の手を休め、気分転換に一人縁側に出た。弥生の澄んだ蒼天の下、季節外れにも薄っすらと積もった雪が竹垣を白く染めている。今季最後の積雪になりそうだ。
この屋敷に越してきて、やっと三日が過ぎた。転居に伴う雑務も一段落し、週が明ければいよいよ、義真は帝都大学にて非常勤として教鞭を執ることになる。
天狗と人間の関係性や互いの特性を学ぶ隣人学が必修となり、旧知の学者より教員になってくれと帝都に請われて来たものの、果たして人嫌いの気のある義真に、教育者が務まるだろうか。ここで言う人嫌いとは、人間嫌いではなく、人付き合いが苦手という意味合いだ。
柿の木が一本立っているだけで、がらんとした印象の庭だが、山暮らしをしていたきぬにとっては、何もない開けた空間というのが物珍しい。義真と出会う前、もしかしたらこのような庭付きの邸宅に住んだこともあったかもしれない。
「さむ……」
独り言を呟きながら手を摩って、濡れ縁に腰掛ける。ここに越すことが決まった時、人間の多い町で暮らすことに、大きな不安を感じていた。いざ転居してみれば、もちろん近所の好奇の視線は避けようもないのだが、意外にも、あからさまに排斥しようとする人間はいない。
義真と出会って一年ほど。夫婦になって半年足らず。その間、山での近所づきあいと言えば、隣の山に住む天狗の老夫婦と時折交流する程度だったので、人間の世界の濃密な共存関係には未だ慣れない。
ぼんやりと竹垣越しに空を見上げていたきぬだったが、ふと何かが砂の上を這いずり回るような、ずりずりとした音が耳に入り、息を詰める。
山にいれば獣に出くわすことも多かったが、このような平地には、鹿も猿もいないだろう。きぬは腰を上げる。音の出どころを探す。変なモノが現れたらどうしようと不安になり、茶の間を覗く。義真は相変らず本の虫だ。
邪魔をするのも忍びなく、きぬは一人で庭を調査する。あれきり奇妙な音もしなくなってしまい、手がかりはなくなった。気のせいだったのだろうと思い、再び縁側に腰掛けようとした時。きぬの足首の横を、縁の下から不意に飛び出した黒いものが駆け抜けていった。
思わず引き攣った悲鳴が漏れて、驚きに尻餅を突く。黒い弾丸は庭を駆け抜けて裏手に回ると、お行儀よく玄関側から外へと逃げて行った。
「きぬ、どうした」
さすがの義真の耳にも、きぬの悲鳴は届いたらしい。寡黙な彼らしく言葉少ないが、濡れ縁の上でこちらを見下ろすその
「ごめん、驚かせちゃったね」
きぬは砂の上から腰を上げ、尻についた汚れを叩く。目線で何があったのか問うてくる義真に、きぬは言う。
「何かいたの。すごく大きくて速い……猪の親玉かな」
義真の眉根が寄る。山中でもないし、そのようなものがいる訳ないだろう、と顔に書いてある。けれども彼は「そうか」と頷いただけだった。
本当にいたんだよ、と主張しようと開いた口は、突然割り込んだ声によって半開きのまま言葉を発せず終わる。きぬは声の方、玄関に視線を向けた。
「あのう、
「はい、ただいま」
幻聴ではないようだ。きぬは小走りで客人の元へと向かう。人嫌いの義真はさっさと茶の間に籠ってしまった。
「はい、どなた……あ、ご近所の。
そこにいたのは、まだ十代と思われる娘だった。薄紅の牡丹柄の
「奄天堂さんこんにちは。知り合いが
娘が抱えた籠の蓋を開ければ、到底一日では食べきれないほどの浅利の山だった。佃煮にでもしようか。海が近いとこんなお裾分けもあるのかと、妙な感慨を覚える。
「いいんですか? こんなにたくさん。どうしよう、なにもお返しする物がないの」
「いいえ、お気になさらず。それよりもさっき、変な人が駆けて出て行きましたけど、どうかされたんですか」
「変な人?」
「ええ、なんか羽織を頭から被って全身を隠した感じの、多分男の人」
きぬは浅利の籠を抱えながら、首を捻る。客人を招き入れた記憶はないし、まさかあの義真が誰かを客間に上げたとは思えない。とすれば。
「もしかして、猪の親玉」
「猪?」
「いえ、何でもない」
縁の下から飛び出した黒い影。獣ならばまだ良かったが、澄の話を聞く限り、それは人間だったというのか。知らぬ男が縁の下に潜んでいたと思うと、肌が粟立つ。今日までは義真が家にいるが、明日からは週数回とはいえ非常勤で教員のお勤めがある。一人きりで過ごす時、変質者に出くわしたらどうしよう。いやいやまさか。きっと澄の見間違いだ。
「あの、大丈夫ですか?」
「ええ、ご心配おかけしてすみません。気を付けて過ごすことにします」
きぬの顔を覗いて首を傾けた澄の瞳が、陽光を浴びて薄っすらと翠がかって見えた。その美しさに、束の間目を奪われる。それに気づいた澄が、視線を逸らせた。
「よかった。……それではまた」
「あ」
この島国の人々は、ほとんどが黒か茶色の目をしていた。最近港に増えたという西洋諸国の人間の中には、翠や碧の色合いを持つ者もいるというから、澄はどこかでその血を引いているのかもしれない。それにしても、綺麗な瞳だった。
きぬは気を取り直し、籠を抱いて台所へ向かう。今晩の献立は何にしよう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます