天狗先生、二度目の結婚

平本りこ

第一話 書生と女学生と天狗

井戸端の噂

「ねえ聞いた? あの空き家に天狗の夫婦が越して来たって」


 文明開化の音がする。そう騒がれてからしばらく経つけれど、いつの時代も奥様方の井戸端会議は大盛況。共同井戸の周りには、しゃがみ込み洗濯にいそしむ者、炊事用に水を汲み上げる者、水には全く用がないのに口だけ動かすためにやって来る者もいた。


「まあ、じゃあこの町に二人も天狗が」

「と思うでしょ。それが何と、奥方は人間だって」

「え、人間! なんでまあ天狗なんかと」

「きっととんでもない醜女しこめなのよ」


 この島国に天狗の数多かれど、人間の数には及ばない。開けた平地を耕し都市を築いた人間と、山地で古き生活を守る天狗。互いを認識してはいるものの、古くから、特に都会では交流らしい交流もなく、付かず離れずの関係だった。


 変革の訪れは、西洋列強の侵出に影響されたものであった。海外との交流を極端に遮断していたこの国は、その門戸を列強にねじ開けられて、大きな混乱に見舞われた。新たな強敵の出現に、古くからの疎遠な隣人にすら親近感を抱くのは必然。さらに、四民平等の気風の中、政府は人間戸籍と天狗戸籍の種別廃止を取り決めた。


 そんな事情もありここ数年、徐々に人と天狗の交流が増え、いよいよ最高学府辺りでは、隣人学……通称天狗学なる講義が開かれて、この国の上層部に上り詰めるのであれば、天狗に関する理解も必須になってきている。しかしそれも、井戸周りにたむろする奥様方には、縁遠い話である。


「でも何でこんな特徴もない郊外に、天狗夫妻が」

「そりゃわかんないけど。すみちゃん、あんた、近所だろ。引っ越しの挨拶回りがあったんじゃない?」


 澄と呼ばれたまだ十代と見える若い娘が、洗濯板を擦る手を止めて、顔を上げた。庭の井戸が壊れてしまい、ここ数日は共同井戸を利用しているらしい。噂話にはさほど興味もなさそうな目をしている。


「はい、会いましたよ」


 途端に、井戸端が盛り上がる。どんな顔だったか。やっぱり醜女なのか。天狗の妻ということは、顔も似ているのか。例えば鼻が長いとか顔が赤いとか……云々。


 澄は年長者の勢いを沈黙でやり過ごしてから、言葉の嵐が収まるのを待ってやっと、口を開いた。


「別に、普通の人でした。多分二十歳はたち過ぎくらいじゃないでしょうか。鼻筋は通ってましたが別に長い訳ではないし……。でも顔は赤かったかも」

「やっぱり! 夫婦は似るのね!」

「赤かったのは寒かったからでは」


 澄の呟きは、再び巻き起こるかしましい騒ぎに掻き消された。

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