浅利ご飯とお風呂
Ψ
「これはなんだ」
「
「これは?」
「浅利のお味噌汁だよ。あとそれは浅利の炊き込みご飯ね」
訊かれる前に答えてやって、きぬは味噌汁を啜る。山育ちの
「旨いが、この小さい貝に何か恨みでもあるのか」
きぬは浅利を飲み込んでから笑う。
「面白いこと言うね。ご近所の方がね、お裾分けしてくださったの。たくさん頂いたから、今日は浅利尽くしの献立だよ」
箸の先で佃煮をつまみ上げ、眼前でよくよく観察する義真に、きぬは微笑みを禁じ得ない。山のことならばきぬなどより、よっぽど深く理解をしているこの天狗は、海のこととなると途端に純粋な童のよう。
「気に入ったのなら、また作ってあげる。そうだ、今度は海のお魚を買ってくるね。川魚とは全然違うから、義真さんびっくりしちゃうかも」
義真が喜んでくれることが、きぬにとって一番の幸せだった。大根の漬物を咀嚼しながら微笑むきぬの顔を眺めていた義真だが、何やら表情を曇らせる。
「どうしたの」
「いや、なんでもない」
海の幸が嫌だったのだろうか。いや、彼の翼がゆらゆらと揺れるのは、気分が良い証拠だ。それならば、なぜあんなに切ない表情をするのだろう。
しばしの沈黙が訪れる。食事が終盤に差し掛かった時、義真がやっと口を開く。
「きぬ」
改まって呼びかけられて、きぬは茶碗から顔を上げる。義真の真っ黒な瞳が真摯な光を宿していた。
「ありがとう」
寡黙な天狗のいつになく温かな言葉に目を見張る。義真は気恥ずかしさを隠すように茶碗に視線を戻した。
Ψ
風呂付の家を借りてよかった。心底身に染みるのは、何も今晩が冷えるからだけではない。
借料が釣り上げるので風呂は銭湯で良いと、義真は言っていた。だが、人間だらけのこの町で彼が銭湯に向かい、好奇の目に晒されることになるのは、受け入れられなかった。当の義真は大したことではない、と言うが、きぬが嫌なのだ。
義真は不器用だけれど、これほどに優しい心根をしているのに、彼が天狗だというだけで人間は、その艶やかな翼と人間よりも体格の良い体つきを不躾に観察する。
風呂を上り、部屋に戻る。義真は布団にうつ伏せになり、
きぬが戻ったことに気づくと、彼は片翼を持ち上げた。「おいで」というように揺れるそれを見て、きぬは頬を綻ばせ、翼の下に潜り込む。温かな羽根が胸から腹を包む。その上から布団を掛ければ、たとえ真冬であっても寒さに震えることはない。逆に夏の盛りには少し離れて眠ることになるのが残念だ。
「明日からいよいよお仕事だね」
呟いてみると、義真は微かに身じろぎをした。きぬは続ける。
「不思議な感じ。ほら、今まで終日一緒にいたでしょう。それが明日から朝晩しか一緒じゃないんだなと思って」
そこまで口にして、きぬは後悔を覚えて口を閉ざす。寂しい。どろどろとした負の感情を抱いてしまうのは否定できない。だがそれを、明日から新天地へと向かう義真に告げるのは間違っている。余計なことを口にしてしまった。
「あの、悪い意味じゃなくて。なんとなくそう思っただけ。ただの感想……」
取り繕うように動いた唇が、温かなもので塞がれる。眼前に迫った義真の顔を見て、きぬは瞼を閉じた。これまでに幾度となく唇を重ねてきたが、鼓動が高まるのは変わらない。
強く抱きすくめられて、きぬは義真の背中に腕を回す。天狗用の寝衣。肩の下あたり、背面に入る切れ込みから現れる、体温の高い翼。その付け根、素肌を撫でる。そこに触れるといつも、彼はくすぐったそうにするのだ。
「きぬ」
口づけの合間に呼ぶ声が耳朶を震わせる。どちらともなく、艶めいた吐息が漏れる。腰帯が解け、熱を帯びた素肌が重なる。触れられた場所が、痺れるように熱い。
「仕事が終わったら、真っ直ぐ帰る」
「うん」
「だから明日も作ってくれるか」
「浅利ご飯?」
義真が微かに微笑んだ。たったそれだけのことで、幸福に満たされる。
洋燈の明かりが障子に二人の影を落とす。眠りにつくまで、明かりは消さない。それが夜目が利かない天狗夫妻の常である。
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