ご近所さんと偏見
Ψ
「行ってらっしゃい」
濃紺の羽織を着て洋風に帽子を被った新任教諭を見送ってから、きぬは腕まくりをした。
まずははたきで高所の埃を落とし、
途中、幾人か買い物途中と見えるご婦人とすれ違ったが、いずれも品の良い会釈が送られてくる。怖いもの見たさで少ししてから軽く振り返ってみれば、彼女らもこちらにちらりと視線を向けながら何事か囁いている。「あれが天狗の」とか、きっとそう言った噂話だろう。
妻にしてほしいと頼んだのは、きぬだった。天狗の妻が人間社会でどういった扱いを受けるかなど、人であるきぬには良く分かっていた。それでも義真と一緒にいたい。その思いだけで今日まで過ごしてきた。
きぬには一寸の後悔もない。だが果たして義真はどうだろうか。浅利を味わって微笑んだ彼もきぬと同じ気持ちであると思いたい。いや、そう信じている。
ほどなくして、大迫邸に到着する。立派な門構えで、庭師が入っていると見える広い前庭を持つお屋敷である。転居の挨拶に訪問した際にも大きなお家だと思ったものだが、改めて見ればひと際だ。気後れしそうになる心を叱咤して呼びかければ、しばらくして割烹着を着た女性が玄関口に現れた。女中だろう。
「はい、どちら様でしょう」
「先日越してきました
「まあ、ご丁寧に。あいにく澄お嬢様はご不在でして。代わりに奥様をお呼びしましょうか」
「いいえ、お気遣いなさらないでください。澄さんはどちらへ?」
訊けば、女中は微かに胸を張った。
「女学校へお通いですの」
「女学校!」
高等女学校に通える女子は華族や裕福な家庭の子女だけである。このお屋敷を所有する主人は、大層な地位を持っているのだろう。きぬは、澄のさっぱりとした美人の顔立ちを思い起こす。それからあの少女の気取らない態度を脳裏に浮かべ、美貌を持ち良家に生を受けても驕らぬ姿に好感を抱いた。
「澄お嬢様と仲良くして差し上げてくださいね。ああ見えてお嬢様は」
「
不意に、屋敷の中から澄ました声が響き、背筋の伸びた丸髷の女性がやって来る。光江と呼ばれた女中が一歩逸れて「奥様」と頭を下げたので、きぬも会釈をした。
「奄天堂きぬと申します。先週、通り向こうに越して参りました」
「ああ、あなたが……」
女性は口を閉ざす。天狗の、と言う言葉を呑み込んだのだと察するが、気には留めまい。続いて、やや不快そうに微かに柳眉を
「大迫
「あ、はい」
冷たい一瞥を寄越して室内に戻る女主人の背中を追い、光江も屋敷に戻る。女中は、主人とは対照的に気遣わし気な目礼を残してから、消えて行った。
二人の背中が見えなくなってやっと、きぬは息を吐く。人間であるきぬは、まだ良い。天狗である義真はこの町で、より強い偏見に接することになるのだと思えば、胸が苦しい。なぜ義真は、人間ばかりのこの町での暮らしを受け入れたのだろうか。帰路につきながら、きぬは思案した。
きぬと義真は出会ってからここに引っ越すまで、山中の古びた民家で暮らしていた。その場所は、義真が最初の妻を得てから暮らした家で、きぬと出会う五年ほど前に前妻を失ってからは独りで暮らした場所だという。
義真は人間の両親に育てられたと聞いているが、家族は帝都よりはるか西方に位置する山間の里で暮らしているらしい。きぬとしては結婚の挨拶に行きたかったのだが、義真からは十年近くも疎遠だから必要ないと言われてしまったため、会ったことはない。
山中にある義真の家は周囲に住民はなく、一つ山を下り改めて勾配を上った場所にある天狗老夫妻の小屋が、一番のご近所さんだった。
彼らは人間であるきぬにも分け隔てなく接してくれて、転居の折にも離別の涙を流してくれた、素敵な隣人だった。義真も、彼らのことは好いていたはず。だが、母校の恩師から急な依頼文が届いたことから、事態は動き始める。
帝都にて、教鞭を執ってほしい。非常勤で良いので論文や小説の執筆時間も確保できるし、もちろん借家の手配もする。そんな文が届いた。
人嫌いの義真はもちろん断るのだろうと思ったが、きぬの想定に反して、彼は数日の躊躇の後に、此度の話を受ける旨の返信を書いていた。きぬにも一言意向確認はあったが、嫌だと言えば置いて行かれそうで、お行儀よく頷くことしかできなかった。
ぼんやりと物思いに耽りつつ歩くには、近すぎる外出であった。心の整理もつかぬまま、気づけば自宅のこじんまりとした門が眼前にある。転居からまだ一週間経っていない。未だ慣れぬ外観である。そして、見慣れぬものがもう一つ。暗色の羽織を纏った、小柄な男性が門前に立ち、玄関を覗き込んでいた。
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