客人は突然に
「あの、どちら様ですか」
控えめに声を掛けたつもりなのだが、男性は大きく肩を震わせて、弾かれたような所作で振り向いた。
眼鏡をかけた、聡明そうな顔立ち。
青年はきぬの顔を凝視し、目を剥いたまま動かない。きぬはやや首を傾けた。
「あの」
「あ、
透き通った声に呼びかけられた。奄天堂、と耳にして書生が再び肩を揺らしたことには気づかない。きぬは振り返る。そこには紫の
「澄さん」
「きぬさんすみません。先ほどは母が失礼をしたようで……。あら、お邪魔してしまいました?」
澄は書生の姿を見て謙虚に一歩引くが、むしろ助かった。物言わぬ客人を一人で相手にするのは途方に暮れる。
「いいえ、とんでもない。澄さん、女学生さんだったんですね」
「たまたま父のつてがあって」
澄はあまり誇らしく思っていないようだった。軽く謙遜してから、それより、と書生を見上げる。澄の不思議な色合いの、その名前の通り澄んだ眼差しに晒されて、青年はやや身を引いてから視線を受け止めた。
「こちらの方、どこかで……」
「申し遅れました」
何か不都合なことでもあったのだろうか。先ほどのだんまりとは打って代わり、青年は捲し立てる。
「
「弟」
きぬは眼前の青年を凝視する。意図せず不躾な視線になってしまったが、宗克は挑戦的な眼差しで対抗をしてきた。義真の家族には会ったことがない。そればかりか、弟がいるとは聞いていなかった。
「弟さんがいたなんて」
「俺も、兄貴が女……それも人間と暮らしているなんて知らなかった」
義父母の里へ、挨拶には行かなかった。義真が不要と言ったから。彼は、家族に手紙すら出していなかったのだろうか。きぬのことを知られたくなかったのだろうかと思えば、胸に靄がかかる。やや俯いたきぬだったが、奄天堂家の詳細な事情など知らぬ澄は、好奇心を隠しきれない眼差しで、さり気なく宗克の背中を覗き込んだ。
「
少しだけうんざりしたような声で言われ、澄は己の非礼に頬を朱に染める。
「失礼しました」
「いえ、兄を知る人全員が同じ反応をしますから、とっくに慣れました。兄とは血が繋がっていないので」
書生らしからぬ品のない言葉遣いだったが、澄は気に留めず、ただ肩を縮こまらせた。
この自称親族をどう扱うべきか。書生の眼差しに嘘はない。それでも、万が一詐欺の
脳裏であれこれと思案を巡らせたが、次第に通行人の怪訝そうな視線と囁きに晒され始め、きぬは小さく吐息をつく。これ以上ご近所でおかしな噂を立てられたくはないと思えば、背に腹は代えられない。
「ひとまずお上がりください。よろしければ、澄さんもどうぞ」
硬い表情の宗克と恐縮した様子の澄を促して、客間に向かう。座布団を引っ張り出して並べてから、きぬは茶を淹れに行く。
その間、澄と宗克を二人きりにするのは気が引けたので、出来る限り
玉露を出せば、青年は相当喉が渇いていたらしく、豪胆に飲み干す。きぬは急須を揺らして注ぎ直すのを二度ほど繰り返した。対して澄は上品な所作で控え目に茶を舐めて、勧められれば戴き物の
青年の身元を保証できるのはおそらく、義真本人しかいない。彼は、仕事が終わればすぐに戻ると言っていた。その言葉を信じ、帰宅を待つのみである。義真の帰りが遅くなるようであれば、澄は家に帰した方が良いだろう。できれば青年と二人きりにはなりたくない。どうか、早く帰ってきて欲しいと切に願った。
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