客人は突然に

「あの、どちら様ですか」


 控えめに声を掛けたつもりなのだが、男性は大きく肩を震わせて、弾かれたような所作で振り向いた。


 眼鏡をかけた、聡明そうな顔立ち。鏡玉レンズの奥にあるのは彫りの深い目元。襦袢の代わりに白い襯衣シャツを着て、上に着物を纏い、袴を履いた姿は、誰がどう見ても書生の装いだった。


 青年はきぬの顔を凝視し、目を剥いたまま動かない。きぬはやや首を傾けた。


「あの」

「あ、奄天堂えんてんどうさん!」


 透き通った声に呼びかけられた。奄天堂、と耳にして書生が再び肩を揺らしたことには気づかない。きぬは振り返る。そこには紫の矢絣やがすりに海老茶の袴を履いた女学生。澄がやや息を切らせた様子でやって来た。


「澄さん」

「きぬさんすみません。先ほどは母が失礼をしたようで……。あら、お邪魔してしまいました?」


 澄は書生の姿を見て謙虚に一歩引くが、むしろ助かった。物言わぬ客人を一人で相手にするのは途方に暮れる。


「いいえ、とんでもない。澄さん、女学生さんだったんですね」

「たまたま父のつてがあって」


 澄はあまり誇らしく思っていないようだった。軽く謙遜してから、それより、と書生を見上げる。澄の不思議な色合いの、その名前の通り澄んだ眼差しに晒されて、青年はやや身を引いてから視線を受け止めた。


「こちらの方、どこかで……」

「申し遅れました」


 何か不都合なことでもあったのだろうか。先ほどのだんまりとは打って代わり、青年は捲し立てる。


小山こやま宗克むねかつ。……奄天堂義真の弟です」

「弟」


 きぬは眼前の青年を凝視する。意図せず不躾な視線になってしまったが、宗克は挑戦的な眼差しで対抗をしてきた。義真の家族には会ったことがない。そればかりか、弟がいるとは聞いていなかった。


「弟さんがいたなんて」

「俺も、兄貴が女……それも人間と暮らしているなんて知らなかった」


 義父母の里へ、挨拶には行かなかった。義真が不要と言ったから。彼は、家族に手紙すら出していなかったのだろうか。きぬのことを知られたくなかったのだろうかと思えば、胸に靄がかかる。やや俯いたきぬだったが、奄天堂家の詳細な事情など知らぬ澄は、好奇心を隠しきれない眼差しで、さり気なく宗克の背中を覗き込んだ。


はねはないですよ」


 少しだけうんざりしたような声で言われ、澄は己の非礼に頬を朱に染める。


「失礼しました」

「いえ、兄を知る人全員が同じ反応をしますから、とっくに慣れました。兄とは血が繋がっていないので」


 書生らしからぬ品のない言葉遣いだったが、澄は気に留めず、ただ肩を縮こまらせた。


 この自称親族をどう扱うべきか。書生の眼差しに嘘はない。それでも、万が一詐欺のたぐいだったらどうしよう。奄天堂家の敷居を跨がせて良いものだろうか。


 脳裏であれこれと思案を巡らせたが、次第に通行人の怪訝そうな視線と囁きに晒され始め、きぬは小さく吐息をつく。これ以上ご近所でおかしな噂を立てられたくはないと思えば、背に腹は代えられない。


「ひとまずお上がりください。よろしければ、澄さんもどうぞ」


 硬い表情の宗克と恐縮した様子の澄を促して、客間に向かう。座布団を引っ張り出して並べてから、きぬは茶を淹れに行く。


 その間、澄と宗克を二人きりにするのは気が引けたので、出来る限りいて茶を用意した。幸い、短時間の外出のため、火鉢の火は落としていなかった。


 玉露を出せば、青年は相当喉が渇いていたらしく、豪胆に飲み干す。きぬは急須を揺らして注ぎ直すのを二度ほど繰り返した。対して澄は上品な所作で控え目に茶を舐めて、勧められれば戴き物の落雁らくがんを一つばかり口にした。その間、世間話以上の会話はない。


 青年の身元を保証できるのはおそらく、義真本人しかいない。彼は、仕事が終わればすぐに戻ると言っていた。その言葉を信じ、帰宅を待つのみである。義真の帰りが遅くなるようであれば、澄は家に帰した方が良いだろう。できれば青年と二人きりにはなりたくない。どうか、早く帰ってきて欲しいと切に願った。

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