洋燈と障子

Ψ


 夕餉の前までは、弟のことを告げなかった義真ぎしんを問い詰めようと思っていた。だが、風呂に浸かりながらぼんやりと思案すれば、義真の、家族に対する一歩引いた遠慮のようなものを感じ、そのいじらしさに怒りは霧散していった。


 もちろん、これからは可能な限り全てを共有して欲しい。出来ることなら故郷の里にも行ってみたい。だがそれを主張することは、義真の心の傷のようなものを開くことに繋がる危険も孕む。


 物思いに耽りながら、寝室に戻る。洋燈ランプの下、義真はいつものように分厚い本に目を落としている。「おいで」と闇に同化しそうな翼が揺れる。しかしながら、きぬはそこには潜り込まず、膝を揃えて枕元に座った。背筋を伸ばしたきぬの影が、障子に大きく映る。


「義真さん」


 改まった様子に、義真は顔を上げる。きぬの表情を束の間観察し、書物を閉じて身体を起こす。きぬの前に胡坐をかいて腰を下ろした。


宗克むねかつさんはきっと、お兄さんのことが大好きなんだね。会えてよかったね」


 義真の眉根に皺が寄る。そんな訳ないだろう、と顔を顰める不器用が愛おしい。


「そんな顔しないで。義真さんの家族と会えて、同じ家で暮らせて嬉しいの」

「そうか? 洗濯物が増える、家が汚れる、食費がかさむ、畳に茶を零される……」

「もう、そんな意地悪言わないで」


 きぬは笑って腕を伸ばす。意図を察して、抱き寄せられる。温かな胸に頬を寄せて息を吸い込んだ。義真の匂いと高めの体温に包まれて、安らぎを覚える。


「私は何があってもあなたの味方だから」


 きっと、宗克さんやご両親もそうだよと、心の中で呟く。それはただの推測だし、もし真実だったとしても、きぬは口にする立場にない。それでも、きぬの気持ちは伝わったのだろう。背中に回された手が背筋を撫でる。


「きぬ」

 耳元で、義真は囁く。

「俺の故郷に行こう、一緒に。すぐには難しいが、長期休暇の折にでも」


 予想外の言葉に、きぬは顔を上げる。洋燈の陰になり、表情はさほど読めない。言葉が返らないことに気を揉んだのか、義真が身じろぎをする。慌てて、きぬは頷いた。


「うん。……でも、いいの?」

「いい、とは」

「だって」


 義真はきぬを家族と会わせたくないのだと思っていた。その言葉を吞み込んで、きぬは微笑む。


「なんでもない。すごく嬉しい」


 義真の翼が安堵したように動いたのが、触れた感覚でわかる。微かな微笑みが返ってきたのを見届けてから、きぬはもう一度胸に身を寄せた。その頬を優しく手のひらで包まれ、気づけば唇が重なっていた。歯列をなぞるような動きに、吐息が漏れる。嫌、ではなかったけれど、もっと聞きたいことがあった。きぬは義真の胸を軽く手で押して、身体を離す。


「待って。今日はだめ。だって」

 義真は首を傾ける。

「だって、今日は講義の初日でしょう? お仕事の話、聞けてない」

「それは、後で聞いてくれ」

「だめだめ。夜更かしは苦手でしょう」


 洋燈の微かな光の中で、義真の顔がやや不満そうに顰められたのが分かったが、きぬは敢えて隣に座り直した。肩に頭を寄せれば、背後から回された手が髪を撫でる。

 

 髪を梳く指先が、不意に何かを思い出したかのように止まり、洋燈の灯りを落とした。夜目が利かない天狗らしからぬ行動に、きぬは瞬きをして暗がりの中に浮かぶ義真の顔を見上げた。


「見える?」

「見えない。だが会話には問題ない」


 間違えて消してしまったのかと思い、洋燈を灯すために伸ばしたきぬの指は、手探りの動作で封じ込められる。義真は意味合いの掴めないことを言った。


「洋燈と障子は、良くないから」

「何が?」


 答えは返って来なかった。代わりに熱い翼に身体を包まれた。

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