いつもの朝は続く

Ψ


「行ってらっしゃい」


 義真ぎしんを見送り、未だ身支度を整えている宗克むねかつを待ち、手持ち無沙汰に門前の塵を箒で払う。どうせ同じ場所に行くのだから、一緒に行けばいいものを。兄弟の間には、未だぎこちなさが残る。これは時が解決してくれるのを待つ他ない。


「きぬさん!」


 息を切らせた、高い声。振り向かずとも、誰のものか判然とする。


「澄さん、おはようございます」

「おはようございます。ところで昨日は大丈夫でしたか? 私、を思い出してから心配で仕方なくて」

「あれ?」


 駆けて来たのだろうか、海老茶の女袴がやや乱れている。大迫の奥様が目にしたら眉をひそめるだろうが、きぬの目にはかえって、微笑ましく映った。澄は息を整えて捲し立てる。


「昨日のあの人、一昨日お宅の庭から出て来た人ですよ! 羽織を頭まで被った、あの」


 庭に出たきぬの足首を掠めて、縁の下から飛び出した黒く大きな獣。あれは果たして人間だったのだろうか。きぬは疑り深く思っているが、少なくとも、澄はそう確信しているらしかった。


「気を付けてください、きっと不審者なんです」

「澄さん、落ち着いて」

「義姉さん、どうかしました……」


 間が悪いことこの上ない。玄関から下駄の音を響かせて、宗克が姿を現した。きぬは身体の位置を変えて宗克を隠そうとしたが無駄なこと。当然、澄の視界にも入ってしまう。澄は上品な顔立ちを引き攣らせて、叫んだ。


「ふ、不審者!!」


 はしたないほどの大声が響き、驚いた雀が木々の間から蒼天に飛び上がった。きぬはひとまず二人を庭に連れ込んで、濡れ縁に座らせる。二人の間には人間三人は優に座れそうな空間が残されていた。きぬは柿の木の横に立ち、宗克が本当に義真の弟であったことを説明した。未だ疑わしい眼差しを保ったままの澄だったが、幾らか落ち着きを取り戻したようだった。


奄天堂えんてんどうさんの親族だということは分かりましたが、なぜあんなところから?」


 あんなところ、というのは無論、縁の下。ひいては家主の許しなく敷地内に入り込み、羽織で姿を隠しつつ奇怪な動きで逃げだしたことを問い詰める言葉。きぬはまだ、あれは宗克ではなく猪の親玉であると思っていた。だが、当の書生は汗でずり落ちた眼鏡を押し上げて動揺を隠せない。


「あれには訳が」

「どのような」


 宗克はきぬの表情を窺う。束の間の躊躇の末、頭を掻いた。


「昨日言った通りですよ。兄貴に泊めてもらおうと思い、聞いていた住所を訪ねたんですが、呼んでも誰も出てこなかったので、庭から様子を見ようと失礼したんです。そうしたら知らない女性が茶の間から出て来て。これは別人のお宅に入り込んでしまった、と思い咄嗟に縁の下に隠れたんです。すぐに砂を擦ってしまい、義姉さんに気づかれそうになって……あとはお二人の御存じの通り。さあ、もういいですか。遅刻する」


 一息で言ってから、宗克は懐中時計を開く。出発の時間が迫っているらしい。それでも澄は疑わし気な表情を崩さない。


「でしたらなぜ、一晩明けてからまたやって来たんですか。その日のうちには別のお宅ではないと気づいたはずでしょう」

「そりゃ、その日の夜にまた来ましたよ。……来ましたけど」


 時計の蓋をせわしなく開けたり閉じたりしながら言って、彼は口ごもる。言うつもりがなかったことを口走ってしまった、という様子だ。澄は尻尾を掴んだとばかりに放さない。


「ではなぜ」

「いやだから。ちょっと、入りづらい感じだったので……」


 なぜだかこちらを一瞥され、きぬは首を傾ける。


「入りづらい?」

「だから、一昨日の夜ですよ。洋燈ランプと障子は、良くないです」


 どこかで聞いた言葉に、思い至る。昨晩、義真が言っていた。「洋燈と障子は、良くないから」。洋燈ランプの黄色い光が障子に人影を落とす。特段気に留めたことはなかったが、もしかしたらもしかすると。


「勝手に家に入ったの?」

「親族の家だからいいかなと思って。あ、でもすぐ出ましたから大丈夫……。て何言ってんだろ」


 次第に語尾が小さくなる声に、情事の余韻が蘇り、きぬは頬に血が昇るのを感じた。事情を知らぬ澄が心配そうにこちらを見上げた。


「大丈夫ですか? お顔が赤く」

「だ、大丈夫、です」


 我ながら説得力のない語調。ただ、宗克の事情は良く分かった。


 澄は怪訝そうに眉をひそめる。宗克は軽く咳払いをして、腰を上げた。


「とにかく、そろそろ行かないと。お嬢さんも学生でしょう。早く電車に乗らないと遅れるよ」

「え、今何時ですか」

「八時十五分」

「いけない。遅刻しちゃう」

「だから何度も言ったよね」


 宗克の呆れ声に、澄が微かに舌を出したらしい。これも大迫の奥様が見咎めれば卒倒しかねない。二度と奄天堂家の下品な門には近づくなと言われそうだ。


「ほら、走るよ。じゃあ義姉さん、行ってきます」


 宗克に促され、澄がなんだかんだと小言を言いながらもその背を追う。振り向きざまの会釈に、きぬは手を振って、微笑ましく二人の背中を見送った。


 角を何度か曲がった先、大通りには路面電車が走る。朝晩の通勤時には、耳を澄ませばこの家からも警笛の音が微かに聞こえる。二人はそれに飛び乗り、各々の学びへと向かうのだろう。


 何の変哲もない朝の喧噪。気づけは雀は柿の木に戻り、羽根を休めている。きぬは腕まくりをして、気合を入れた。義真が仕事に、澄と宗克が勉学に精を出すのであれば、きぬとて遊んでいる訳にはいかないのである。


第一話 終

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