第二話 天狗夫妻の馴れ初め
前編
雷は嫌い
暗雲が空を覆う。遠雷が轟き、雨の臭いがどこからか漂う。ほどなくすれば、この町にも雨粒が打ち付けるだろう。
水無月の空。太陽は久しく拝んでいない。せっかくの休日だというのに、買い物すら憚られる雲行きに、きぬは濡れ縁に腰掛けて嘆息する。庭の柿の木には濃緑の若葉が茂る。この梅雨を過ぎればやっと、気分まで晴れやかになるような夏が待っている。しばしの辛抱だ。
「義姉さんは本当に雨が嫌いなんですね」
微かな床鳴りを伴って、暇を持て余した様子の
「雨というより、雷が苦手なの」
「へえ、どうしてです」
きぬは回答に窮してぼんやりと柿の葉を見上げた。なぜ雷が苦手か。稲光が恐ろしい。雷鳴が耳に痛い。時には障子が揺れるほどの衝撃がある。打たれれば焼け焦げる。……人の頭に落ちるのはごく稀だけれど。
雷の恐ろしさを挙げろと言われれば、枚挙に暇がない。宗克も、会話の流れで訊いただけなのだろう。特に深い回答は必要ない。それなのに、きぬの脳裏にはあの日の稲光が過る。そう、一年ほど前。
Ψ
雨粒にさえ、肌を貫かれるようだった。体中が痛い。袖の破けた着物の下から覗くのは、青紫色の広範な痣。どこで負った傷なのか、判然としない。それでもそれが打撲というものであり、痛みを伴う傷であると理解していた。
今、負傷した身体を容赦なく打つのは雨。歩を進める度に脛を切り裂くのは下草。時折雨を遮ってくれるのは木々の枝葉である。言葉は不自由ない。算数も問題ない。きっと魚だって三枚に捌ける。それなのに、己が何者で、どのような名を持ち、どうしてこのような山道を一人で歩いているのか、その全てが分からない。
「あ……」
木の根に
死というものは、恐ろしいものなのだろうか。それは、打撲よりも痛く、腹を打つよりも苦しいことか。それらの苦痛は確かに死の入り口には存在するだろう。だが死の向こう。三途の川を渡った先には、苦痛はないと思う。生きる意味も分からない。なぜ、息を吸い込もうとするのだろう。
無造作に伸ばした指先近くで、雨に打たれる物がある。転んだ拍子に
無意識にそれに指を伸ばす。何か、とても大切な品だったはず。触れても何の記憶も湧き起こらない。それでも巾着を大事に眼前に引き寄せた。巾着には、楓の葉が左右から抱き合わさるような恰好で刺繍されている。抱き楓の紋。まるで広げた鳥の翼のよう。
どれほどそうしていただろうか。ほんの一瞬だったかもしれないし、何時間、何日と経っていたのかも知れない。気づけば雨は止んでいて、ただ微かな遠雷だけが鼓膜を震わせた。
ざく、と小石を踏む音がした。巾着を掴んだ指先のすぐ側に、
天狗の、驚きに見開かれた
「助けて」
無意識に唇を滑り出た言葉は、己を驚かせた。願いを聞き入れて、温かな腕が伸ばされる。助け起こされてその腕に身体を預ければ、春の木漏れ日の下にいるような錯覚さえ覚えた。一つ安堵の吐息が漏れる。そのまま、意識を手放した。
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