きぬ、になる

Ψ


 味噌汁の匂い、長葱を輪切りにする軽やかで規則的な音、米を炊く釜から噴き出す蒸気の気配。これらは、空腹を刺激するには十分過ぎた。瞼を上げれば、窓から差し込む陽光が眼球に痛い。反射的に目を閉じてから、今度は用心深く薄っすらと開いて光に慣らす。


 温かな布団の中で、仰向けになっていたようだ。天井は梁が剥き出しになっている。身体を起こそうとして腕を突き、激痛に息を吞む。その鋭い呼気が、覚醒を周囲に知らせたようだった。


小母おばさん、起きたようだ」

「本当かい」


 低い声だったが、小母さんと呼ばれた女性の耳には届いたらしい。包丁の音が止まり、慌ただしい足音が向かってくる。僅かに脚を引きずるような音だった。


 起き上がることを断念した眼前に、皺が刻まれた、優し気な印象の老女の顔が現れる。彼女は目を丸くしてから、嬉しそうに微笑んだ。


「おやおや別嬪さんだ。無事でよかった。あたしの言葉、わかるかい。さん」

「……きぬ?」


 言葉は分かる。きぬ、は絹だろうか。何の脈絡もないの単語に、首を傾けた。老女は顔を曇らせる。


「ありゃ、言葉忘れちまったかね」

「いや、昨日は話していたはず」


 言ったのは男の声だった。眼前に射干玉ぬばたまの瞳が現れて、あの雨上がりの記憶が蘇る。彼に助けてもらったのだ。礼を言わねば。


「あ、あの。助けてくださって……痛っ……」

「ああ、動かなくて良いよ。怪我をしているんだ。それよりきぬさん、腹減っていないかい。すぐに粥を作ってやろうね」


 一方的に捲し立てて、老女はおそらく台所に戻った。暫くして再び、長葱を切る音が響いた。


「きぬ」


 それが己の名なのだろうか。呼ばれても、試しに舌で転がしてみても、実感はない。かといって、拒絶する気持ちも起こらない。それこそ、葱とか味噌とか呼ばれても、そういうものかと受け入れられるような、真っさらな心持ちだった。


「きぬ、が名前ではないのか」


 天狗の男がこちらを覗き込んだまま呟いたので、正直に答える。


「わかりません」

「記憶喪失か。……いかん、初めて見た」


 腕を組んで呟いてから、天狗の男は気を取り直して、薬箪笥くすりだんすのような小さな引き出しから、泥により半ば茶色く着色されてしまった巾着を取り出した。


「ここにきぬ、と刺繡されている。だから名前はきぬ、というのだろう」


 安直だったが確かに一理ある。ただし、おそらくこれは絹縮緬ちりめん。単に素材を示しただけ、ということはないだろうか。とはいえ、名前がないのも彼らも困るだろう。「どうだ」というように目で問う男に、頷いた。


「わかりません。でも、そうだったのかも。どうぞ、きぬとお呼びください」


 曖昧な答えに困ったように、男は微かに眉を下げた。寡黙そうな印象の天狗だ。けれどもその瞳は優しい。目で会話をするような人だなと、きぬは思った。


 そうこうしているうちに、老女が男を台所から呼びつける声が響く。黒い瞳が逸らされて視界から消えると、なぜだか心細さを感じた。


 少しして、枕元に箱膳が置かれて、真ん中に茶色い梅干しが乗った雑穀粥の香りが鼻腔をくすぐる。腹の虫が鳴りそうなほど空腹だったことに、この時になって気づいた。葱の乗った熱々の味噌汁はどこへ行ったのかと残念に思うが、怪我人用ではなかったようだ。


 男の腕が背中を支えてくれて、やっと上半身を起こすことができた。身体が軋むように痛い。腕を上げれば激痛で、匙を持つこともままならない。粥を口に運んでくれたのは、老女だった。温かな食事を胃に半ば流し込み、あっという間に完食する。行儀が悪かっただろうかと後悔したが、老女は逆に嬉しそうだった。


「たくさん食べて早く元気になるんだよ。ああそうだ、あたしは千賀せんがという。これは義真ぎしん


 千賀はよくある苗字だが、義真は名前だろうか。後日知ったことだが、千賀も義真も個人名であり、天狗の名前は人間からすると読みが特殊に感じられる場合が多いという。人間で当てはめれば、彼らの名は千賀ちか義真よしまさと言ったところだろうか。


 そういえば、老女の背中にも立派な翼がある。だが、きぬが着させてもらっているのは、清潔で微かに樟脳しょうのうの香りすらする、人間用の寝衣であった。


 天狗用との違いは明白で、天狗の衣には翼を出すための切れ目が入っているはずだ。しかしながら、きぬが袖を通しているものにはそれがない。誰か人間が、きぬに貸し与えてくれたのだろうか。


「あの、他にはどなたかいらっしゃるんですか」

「他に? 山向こうにはあたしの旦那がいるけれど」

「この着物、人間用ですよね。お礼を言いたくて」


 綺麗に折り目までついていたようなのに、大分寝汗で汚してしまった。きぬの言葉に、急に先ほどまでの勢いを失った老女が、ああ、と呟いて義真を見遣った。その様子を怪訝そうに見守るきぬに、義真は表情一つ変えずに言った。


「問題ない。もう、彼女は故人だから」

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