天狗の習性

 「彼女」について、義真はほとんど語らなかった。隠している様子はない。単に彼は、訊かねば己のことを話さないのだ。それならば尋ねれば良いのだが、空っぽの腹が温かな雑炊で満たされると気を失うように眠ってしまったきぬは、その機会を失ってしまった。


 きぬが眠りに沈む前、義真が告げたのは、「彼女」は人間であり妻であったが、五年ほど前に実家に帰って亡くなった、という話だった。


 淡々とした彼の語り口からは、悲嘆も追慕も感じ取れない。それでも、次々と惜しげもなくきぬに貸し与えられる「彼女」の衣が大切に保管されていたことを鑑みれば、決してぞんざいな関係ではなかったのだろうと思えた。


 保護されてからの数日間、きぬは高熱にうなされた。今思えば無理もない。一体どれほどの時間雨に打たれたのかすら記憶にないが、控えめに見積もっても、着物が絞れるほどには水浸しになっていた。


 身体はなぜか青痣だらけで、擦り切れた着物で当てもなく彷徨ったものだから、脛や腿には枝や下草に切り裂かれたと見える赤い線がいくつも入っていた。千賀の介助で水浴びをした際には、傷に染みる痛みに悶絶したものだ。ただでさえ風邪を引きそうなものだが、加えて負傷しているとなれば、発熱がない方が奇妙であった。


 療養のため、終日とこに伏せっていても、時折覚醒することもある。そんな時、きぬは決まって耳を澄ませた。


 この家の空気は、常に静謐せいひつだった。瞼を閉じて微睡まどろみながら、微かな音に耳を傾ける。衣擦れの音、書物を捲る指の滑り、紙のたわみ、書き物の際の墨の広がり。時々聞いたことのない乾いた音がしたけれど、ある時視線を向けてみて、それが天狗の翼が揺れる音だと知った。静かな空間が心地よい。


 最初は、怪我人をおもんぱかって敢えて静かな所作を心がけてくれているのだと思った。しかしながら、きぬがいくらか快復し、とこから起き上がることができるようになっても、この家の空気感は変わらない。


 相変らず書物を扱う音ばかりが梁に反響する。義真は最低限の言葉しか発さない。その代わりに目で問い、翼の動きで答えるようだった。あまりにも静かで、彼が言葉を忘れてしまったのではないかと思い、時折声を掛けてみる。すると決まって的確な回答が返ってきて、きぬは人知れず安堵した。


 もう少し快復した頃になって、時折様子見に通ってくれていた千賀が、「うちに来るかい」と提案をしてくれた。


 おそらく、義真ときぬを一つ屋根の下にしておくことが気にかかったのだろう。だが、千賀とその夫の家は山を下りさらに勾配を登った先にある。

 

 寝たきりで筋力の衰えたきぬの足では移動は苦行であり、居候先のお引越しは早々に断念することになった。そのままその話はになり、立ち消える。代わりに千賀は、三日に一日は義真の小屋を訪れて葱を切って帰った。


 きぬとしても、この家での暮らしに何ら不満はない。義真は居るのか居ないのか分からないほど気配がないし、きぬも沈黙を好んだ。


 やがて体力が十分に戻ってやっと、きぬは家事を手伝うようになる。はじめ、義真は手伝いなど不要と言ったが、命を救ってもらった恩返しどころか、居候の礼すらできないことを気に病んだきぬの様子を察し、結局何も言わなくなった。


 己自身に関する過去の記憶はなかったけれど、どうやらきぬには家政の才能はあるらしい。何年も落としきれずに放置された、着物の頑固な染みの落とし方を知っている。義真のように釜一面のおこげを作り出すこともしない。それに彼が行う半分ほどの時間で掃除をした。……が、これは彼がとても几帳面だったから時間がかかるだけなのかもしれない。


 兎にも角にも、静かで優しい日々が過ぎ、きぬの腕から痣の痕跡がなくなり滑らかな肌色が戻った頃には、季節は初夏を過ぎ、気づけば蝉が鳴く時期になっていた。


 夏は賑やかである。音のない世界に慣れたきぬでも、虫や鳥の鳴き声や、そよ風が木々を撫でる騒めきは、心地よい。雲一つない晴天の日には決まって、きぬは義真を外に連れ出した。

 

 彼は少し面倒そうにするけれど、終日家に籠って本の虫になってばかりいたら身体に悪い。義真はきぬが言い募れば最後には折れて、庭先で日向ぼっこをして上機嫌に翼を揺らす。彼はきぬよりも年長で、寡黙ゆえに年齢よりも落ち着いてすら見えるのだが、口の代わりに感情を示す翼を見れば、なぜだか次第に可愛らしく見えてくるのだから不思議だ。


「なぜ笑っている」


 緩んだ頬に気づかれて、きぬは唇を軽く噛んで表情を取り繕う。


「いいえ、笑ってません」


 言った声がもう笑いを含んでいて、なんとも説得力がない。義真はただ軽く首を傾けただけだった。


 そんな様子で、隙さえあれば家に籠っている義真だったが、読書や書き物が彼の仕事の一部であったことを知るのは、夏も深まった頃である。その日、珍しく彼は余所行きの着物に袖を通していた。


「どこへ行くの?」


 そんな着物持っていたのか。ただの着流し姿なのだが、いつもは擦り切れた部屋着ばかり目にしているので、きぬは思わず目を見張る。


「街へ」


 義真は短く言って、玄関で草履をひっかけてから、思い出したように肩越しに振り返った。


「きぬも行くか」

「え」


 意外な誘いに咄嗟に言葉が出ない。その間をどうとったのか義真は首を戻して、縹色はなだいろの風呂敷に包んだ荷物を脇に抱え直した。


「あ、待って。行きます!」


 慌ただしく髪を撫でつけて、その背を追う。義真は山を下る道の入り口で、木立のように静かにきぬを待っていた。横に並べば、彼は歩き出す。歩調は緩やか。おや、と思った。ぶっきらぼうな印象のある男だが、何も言わずきぬの歩幅に合わせてくれる心遣いがくすぐったい。


 襟を軽く整えて、夏の日差しにも透けない義真の黒々とした瞳を見上げる。視線に気づいたのか怪訝そうな眼差しが降って来る。なんでもない、ときぬは首を振って視線を逸らせた。


 不意に思ってしまった。この薄物を着て、義真の隣を歩いたはずの奥さんは、どんな人だったのだろうか。彼はきっと同じように、歩幅を合わせて歩いたのだろう。想像をすると、胸に複雑な思いが渦巻く。


 それは「彼女」の着物を纏い、意図せずとも彼女になり代ろうとしていたことへの罪悪感であり、微かな嫉妬でもあったかもしれない。


 そしてその感情に気づいた時、きぬは絶望を覚えるのだ。いつまで、ここにいて良いのだろうか。きぬはただ、義真と千賀に保護された、なんの価値もない、ただの居候にすぎないのだ。

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