街へ行こう
これは後から聞いた話だが、天狗の翼はその身体に対して小さ過ぎるので、羽ばたきだけで空を自由に飛ぶことはできない。代わって、高所から飛び降りて滑空する程度ならば可能だという。ちょうど、
だから、この日も義真一人きりだったなら、お山の一本松によじ登って滑空し、山の中腹程度まで下ってしまえば移動時間の短縮になったのだろう。だが、義真はそれをせず、敢えてきぬを伴って山を下りた。その意図は、ほどなくして明らかになる。
「街って……人間の街のこと?」
海が遠く、舶来の物が届きにくい地域ではあるものの、近代的な印象の街だった。主要な通りは舗装され、
義真が街へ行くのなら、天狗の街に行くのだろうと思った。もしくは、田舎には天狗と人間が共同生活を送る場所もある。だが此度向かった街には、
物珍しいのだろう、
慣れた調子で路面電車に乗って向かったのは、
受付係は義真の姿を見ただけで、用件の場所に取り次いでくれる。ついて行って良いのか心配になるが、誰もきぬを止めはしなかった。代わりに、好奇の視線に晒されて、思わず身体を小さくした。
その部屋に入ると、出迎えてくれたのは洋装の壮年男性だった。彼は義真が入室すると満面の笑みになり、右手を差し出し歓迎の意を示した。
「どうも、
「先生?」
世に先生と呼ばれる人種は複数ある。医者か、教師か、弁護士か。きぬが咄嗟に思い付いたのはその三つだったが、この男性が意図したのは、どれでもなかったようだ。
「ではさっそく、原稿を」
「ああ、お連れの方はよろしければあちらで」
男はにこやかに隣室を示すが、半ば追い払われるような状況だ。義真の表情を窺えば、同意が見て取れたので、きぬは大人しく従った。
隣室で、職員らしきの女性が洋風の茶器を用意してくれる。職業婦人、というのだろうか。洋装に、頭髪はふんわりとした耳隠し。しっかりと紅を引いて瞼にも彩りを乗せた顔が人形のよう。
きぬは女性の白い指先に見惚れながら、白磁の
「きぬ、待たせた」
「いいえ、大丈夫です。それよりこれ、すごくおいしいの。何てお菓子かな」
丸くて、香ばしくて甘い。あいにく菓子皿には粉しか残っていない。義真はきぬの説明を頼りに頷いた。
「ビスケットだろう。気に入ったのなら買って帰ろう」
言ってから、じっとこちらを見つめる。きぬは首を傾ける。義真は少し躊躇ってから提案した。
「街で食事でもして帰るか。腹がいっぱいでなければ」
きぬは大きく頷いた。自分でも恐ろしいことに、きぬの食欲は常に底なしだった。
出版社の建物を出て、路面電車の警笛に追い立てられながら街を歩く。街行く人々の装いは和洋折衷。会社勤めが多いのか、
まるで別世界だ。義真の家で厄介になる前もきっと、山際か海辺か、どちらにしても田舎暮らしだったに違いない。全てが目新しい。初めて見る、という気分ではないけれど、非日常の光景に胸躍る。人が多い。道路の向こう側には、良く知らないが偉人と思われる銅像が立ち、観光客がそれを囲んでいる。
山は好きだ。義真の小屋も、数回だけお邪魔したことがある千賀の家も。嗅ぎなれた味噌の香りや、檜風呂の匂いにも安心を覚える。どちらに住みたいか、と訊かれれば、きっと一寸の迷いもなく「山」と答えるだろうけど、この日のきぬは、久方ぶりの都会の景色に浮ついていた。
「きぬ」
呼びかけられて、
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